texus-no-kumagusu さんが記事に取り上げてくださったので、めのおもなにか書こうと思います。まず、スレート屋根の完成に際しての感慨は、思春期の不安をそのまま再現したもので、時たまこうした感慨に耽ることがあるけれども、青年期、中年期を社会で働き、企業活動の一端に加わる経験をした後の現在は、このような科学技術に対する全否定といった考えは平常心ではありません。
その点、この記事は言葉が足りなかったなと反省しております。
科学技術の恩恵に現在世界中の人々が与ってるわけですし、誰もがその肯定的な面には感謝してると
思います。ただ、ここに至って(漠然と21世紀に入ってとしておきましょうか)特に、その否定的な面が気候変動、ガン発生率の増加などに現れて来た。もちろん明確な因果関係を示せといわれれば、非力な市民にはできませんが、温室化現象、大雨の増加など直感的に人間の活動と関係あるに違いないと感じている人は多いと思います。
科学技術には3つの面があると思います。
①理解したいという抑えがたい欲求。純粋な科学的欲求ですね。
②科学研究によって得た技術的成果の商業的な利用
③科学技術の政治的利用
この三つの面を混同してしまうと前回の記事の様な全否定に陥ってしまう。
めのおは中学までは数学(算数)と理科が大好きで、国語、社会などは解らなかった。大人になったら科学者かエンジニアになるものと決めて疑わなかった。思春期に数学という今まで当たり前に扱っていた「点と直線」「数」というものを改めて定義するという学問の世界に越境する時に戸惑い不安になり懐疑することを発見し、躓いたまま立ち上がれなかったのです。この時期に、「くまぐす」さんのような優れた数学・物理学者でありながら人文科学にも造詣が深い指導者に出遭っていたなら、めのおは迷わず自然科学の道を選んだだろうと思います。
いつもながら、「くまぐす」さんの文章は論旨明快でほれぼれするような力強さがあり羨望すら覚えます。
上に戻ります。現代社会は総ての人が科学技術の恩恵を受けて暮らしている。スレート葺きの屋根を昔ながらの工法で作り満足したとしても、そこで使った「ヴィス=もくネジ」「電動ドリル」はまぎれもなく現代工業技術の産物です。
都会では電車、地下鉄、路面電車など交通網が発達してるため、車など使わなくても生活できますが、田舎ではエコロジカルな生活を目指しても逆説的に車を毎日のように使わなくては暮らして行けない。
上に①と②を挙げたは、「パンセ」を残したことで有名なフランスの数学者ブレーズ・パスカルのことが頭にあるからです。天才的な数学者、歯痛を紛らわすためにサイコロイド曲線の数式を解いてしまった。そしてカトリックの中でも特に厳格なジャンセニストとして神の存在を証明するために「パンセ」を書きはじめ未完のうちに若くて死んでしまった。
「神がいるかいないか分からないとしたら、居る方に賭けよう」という「賭けの論理」が好きです。
さて、そのパスカルですが単に純粋な数学者ではなかった。コンピュターの先駆けともいえる手動の10進法計算機を発明し、のみならず父親とオムニバス(乗合馬車)の事業に乗り出し金儲けも忘れなかった。ピュイ・ド・ドームの山で実験をしたようにパスカルはフランスの中央山岳地帯、クレルモン・フェランを首府とするオーヴェルニュ地方の人です。数代前の貴族的大統領ジスカール・デスタンの本拠地ですね。そう、タイヤのミシュランの本社工場がある地でもあります。
純粋な知的欲求から自然科学に、さらに技術へと向かう志向はレオナルドダヴィンチとかガリレオなどに感じます。
そして数学という抽象的思考が現実に対応する、コペルニクスやケプラーなどの発見や、冥王星が計算により存在が証明されたとか、現代の衛星の軌道計算など天文宇宙科学と数学とは切り離せないですよね。「イカルス」でしたっけ「はやぶさ」だったかな?何年も遠くへ行ってからちゃんと戻って来たのは素晴らしいと思います。
しかし、これだけ科学技術が万人から称賛を浴び、恩恵に感謝されている状況だからこそ、逆に「手放しで喜んじゃいけないよ」と言いたかったわけです。そこは既に沢山の人が警告を発してるわけで今更めのおが出しゃばる幕でもないのですがね。
問題は③なのです。
フランスが1830年に、それまでオスマン帝国に支配されていたアルジェリアを攻撃し、植民地に、いやその後フランスのひとつの県として併合してしまった時、軍人たちは「ユートピア」思想家の「サン・シモン」主義を掲げて、現地の伝染病を駆逐し原住民を病疫から救ってやった、と植民地支配を合理化する理屈を挙げてるのですね。これは現在も日本の朝鮮半島支配などを肯定し弁護する人々に似たような論理が使われていると思います。
純粋科学としての原子物理学でキュリー夫妻やラザフォードやフェルミなど原子の自然崩壊を発見し証明した。これらの科学者によって物質に関する認識が深まったわけですが、戦争という不幸な状況によって核物理学が政治的に利用された。
今も「イスラム国」の原始的ともいえる暴力に対して、これは西洋自由主義文明、高度に発達した資本主義と民主主義社会への挑戦として、空爆やドローンなど高度な武器を使って殲滅しようとしています。
恐怖に駆られやすい体質の人間は、戦争がエスカレートすれば、核保有国が増えた今、ゆくゆくは「世界最終戦争」へと発展するのではと非合理な絶望に導かれたとしても、いわれのないことと一笑に付すことはできません。
歳を重ねて鈍感になっためのおは、それでも人間は最後は生き残りを選ぶだけの英知を持ってるだろう、まあ、アホが出て核戦争で人類が滅んだとしても、やっぱり人間はアホやったなあ、と苦笑いしてみんなと死んでゆくでしょうがね。不安定の時代は、くまぐすさんがご指摘の通り先のことは、判らないので、「生き延びる」ことに賭ける。人類の「英知」に賭け、科学者は科学者の技術屋は技術屋の芸術家は芸術家の職人は職人の商人は商人の天職の営みを最後まで続けることが、結局は「生き延びる」ことにつながるのでしょう。
texus-no-kumagusu さん、ありがとうございました。日本画と洋画を比較した拙記事にお寄せ下さったコメント、「線」がなぜ目立つかをイカの眼を使って証明した科学者の話、そこにもまた数学の論理を援用されて、めのおはこういう考え方があるのか! とまったく新しいものの見方を教えられたようで感動しました。
10月には和歌山に行きますので、南方熊楠記念館を訪れて、かの「履歴書」を拝見してこようと思っています。