クラムシーの町 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

思春期にロマン・ロランの「ジャンクリストフ」に感動して以来、フランスに来たいと思い、ついにクラムシーから40kmほどの村に家を買って住みついた。

クラムシー Clamcy はロマン・ロランの生地なのだ。

8月15日の夕方、雨続きだった天候がやっと回復した晴れ間にクラムシーへ行った。8年前引っ越したばかりの頃、来た時は廃屋が並んで打ち捨てられたような寂れた町だったのが、中心部を修復して多少きれいになった。女性の市長さんが町の復興に力を入れているそうな。


裁判所
                町の中心部の広場に建つ裁判所↑



広場から南側を見た町の光景↓


町


ロマン・ロランの生家は今は市のミュゼアムになっている↓


ロランの家

17世紀の建物、ベルガルド公爵の館と隣り合ったロマン・ロランの生家をくっつけて、一方は作家のスイスの家の書斎から運んだ机と椅子など記念品を、一方は、この地域の産業だった山から伐り下ろした木材を筏を汲んでヨンヌ川でパリへ運んだ写真や模型などが展示してある。ヨンヌ川はセーヌの支流でモントローで合流する。


ミュゼ

上の左がロマン・ロランの生家、右が公爵の館で木材産業のミュゼアム。


側面

公爵の館の側面は
背の高い三角の壁↑

この道にロマン・ロラン通りの表示が出ていた↓

表示

ミュゼアムの裏側は高台になっていて、上にカテドラルが建ち、中世の面影を残す(むしろルネッサンスのスタイル?)コロンバージュ(木の柱が露出した壁)の民家がいくつか残っている。


民家1

カテドラルはゴシック・スタイルで、右側にひとつ
太く大きな塔が建っている。

カテドラル
               

カテドラル2


 ファサードの浮彫は傷みが激しい↓

浮き彫り              

カテドラルが建つ丘へ登る急な階段↓

階段

裏に回ると再びロマン・ロラン通りに出た。


民家2


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ロマン・ロラン通りを来た方向へ戻るとミュゼアムの別館があった。


別館

ロマン・ロラン文化センター」と壁に表示してあるが、市のサイトを見ても最近のコンサートの案内が出ていただけで説明がなかった。ロマンの生家を含めて市のミュゼアムとし、こちらを別館としておこう。車を置いた中心の広場を横切って短い商店街を歩くと、ヨンヌ川に出る。


ヨンヌ1

ロマン・ロランがクラムシーで暮らしたのは幼年時代と中学生(14歳半)まで。幼少時に村のカーニバル(冬の2月)に連れて行った女中さんがダンスに夢中になりロマンを雪の降るテラスに放置したため気管支炎に罹り、これは健康上の弱点として一生続いた。ロマンはどちらかといえば病弱な体質の持ち主だった。

ロマンをグランゼコルへ進学させるため家族はクラムシーを出てパリに移住した(1880年9月)。グラン・ゼコルは普通の大学よりも1ランク上の学校で、高校を出たのち2年間の予備校を経て試験に合格しはじめて入学を許されるというエリート養成校なのだ。ロマンはパリの名門校、リセ・サン・ルイに入学した。同級にマルセル・シュワブと劇作家・詩人で関東大震災当時在日フランス大使を務めたポール・クローデルがいた。

1882年、それまでグランゼコルのポリテクニックを目指して数学のクラスを選んでいたロマンは、11月のある宵に劇場でベートーベンの交響曲を聴き、それまでモーツアルト以外は解らなかった音楽が突然啓示を受け宇宙の本質を摑んだように理解できたと感じ、理工系のポリテクニックを止め、音楽学の道へ進む決心をした。

クラムシーの町のノテール(公証人)で敬虔なカトリックの家庭に育ったロマン・ロランは、しかし高校時代の精神的な悩みから信仰を捨てた。ヴィクトル・ユゴーとスピノザに感化を受け、1882年と84年の間にロマンはミステイックな体験をした。後に(1904年)彼はそれを「存在の大海原」を発見したと書いている。

2年浪人した後に、エコール・ノルマル・シュペリユール(高等師範学校)に入学しミュジコロジー(音楽学)を専攻した。卒業後は母校やソルボンヌで教鞭をとった。

スイスへ旅行で行った最中に第一次世界大戦が勃発し、フランスへ帰れなくなり、そのまま祖父の別荘があったレマン湖の畔の村に住んだ。「戦乱を超えて」という記事が新聞に掲載され、戦火を交えるドイツとフランスの間に入って仲裁役を務めようとした。

この時代は偉大な政治家で平和主義者のジャンジョーレスが暗殺され、反戦平和運動も盛んだったのだが、にもかかわらずドイツとフランスを中心にヨーロッパは第一次世界大戦という人類史上初の総力戦、文明の破壊への道を進んだ。

長い年月をスイスで暮らしたのち、晩年になってロマン・ロランは生まれ故郷、ここクラムシーに近いヴェズレイに家を見つけ移り住んだ。ヴェズレイに引っ越して1年か2年後にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、やがてベルギー、オランダを占領したため同盟国だったフランスとイギリスはドイツに宣戦を布告し、フランスには堅固で超える筈がないと信じられていたマジノ線を破ってドイツ軍が侵攻し、あっという間に英仏連合軍をダンケルクに追い詰め、人民戦線内閣を実現したこともあるほど社会主義的だったフランスは議会制民主主義を放棄し、第一次大戦の英雄だったペタン元帥に独裁を許し、ナチス・ドイツへの協力政権(ヴィシー政権)が出来てしまった。

ロマン・ロランが静かに晩年を送ろうとしていたヴェズレイにもドイツ軍の軍用トラックや兵士の隊列が連日通り、数百人ものフランス人捕虜を連れて来たり、ロランの住居を士官の居住用に徴用しようとしたり、数百枚のシーツを市庁に徴用させたりした。フランスの北から南へ逃げる難民の群れが連日ロランの家の下の道を眼路の果てまで列を作って移動する様子を「戦時日記」に書き残している。

スイスとフランスとの風土の差は日本とフランスの差と比べたら無いに等しいようなものだろうが、それでもロマン・ロランは晩年には故郷に帰り、故郷の村々の風景を眼にし、そこで暮らす喜びを日記に書き残している。

高校時代の友人だったポール・クローデルがヴェズレイのロマンを訪ねカトリックに改心させようと試みるが、「神を求める気持ちはあっても、知性が邪魔をして信仰に入ることはできない」と、入口の敷居に立ちながらミステイックのまま逝った。

反戦平和運動で二人三脚を組んだ詩人のルイ・アラゴンが英雄を祀るパンテオンに埋葬させようと奔走したが叶わず、遺言どおりクラムシーとヴェズレイの間の母方の故郷の村の小さな教会の墓地に葬られた。

ロシアのゴーリキーともマハトマ・ガンジーとも知己になり共産党にも近づいたが「精神の独立を守る」ため組織にはついに入らなかった。


ヨンウ川


鮭が生まれた川に戻ってくるように、人間も生まれ故郷に戻りたいという本能的な欲求がある。それは言葉、食べ物、風俗習慣などひっくるめて風土と呼べると思うのだが、歳をとるほど、幼年時代の風土に戻ってゆくのだ。

端的に、たとえば、年老いて病気になり、今にも死ぬというような苦しい今わの際に、「痛い!」という一言でも母国語で言うのは自然なのに、外国の病院や養老院で介護を受けてれば、「Ca pique !とか「Ca fait mal!」とか外国語で言わねばならないのだ。想像しただけで辛くなる。幼児期から外国語を母国語同然にバイリンガルで育った人を除いて、これは大抵の人にいえることではないか。病気で寝ている老人には、ちょっとした言葉で気持ちを汲み取ってくれる同じ風土で育った人が傍に居てくれることが最大の慰めなのだと思う。

フォンツナーユ
                帰りの道脇にあるフォントナーユ村の教会↑

藤田嗣治は、80歳でランスに平和の聖母のシャペルを建設し、内部の壁画を完成して1年後にガンで亡くなった。チューリッヒの病院だったというが、彼の場合は幼い頃からフランス語を学んでいたし、晩年は親子ほども年齢が離れた日本人女性「君代夫人」が傍にいたから、外国で死ぬ事にもそれ程の苦痛はなかっただろうと思う。戦後しばらくして日本と決別し、日本国籍を捨て、フランス国籍を取得してカトリックに回心して洗礼を受け名前もレオナール・フジタとしたぐらいだから、外国に葬られてむしろ本望だったのだろう。

先日偶然ネットで見た情報では、2014年現在外国に暮らす日本人(日本国籍の人)は125万人という
(過去最大)。日本の総人口の1%に当たる人が外国で暮らしている。このうち、ほとんどの人は日本に帰るのだろうが、どれだけの人が外国に骨を埋めるだろうか?

僕は生まれは東京の新宿の花園神社の向かいの病院だが、4歳から5歳の2年間を兵庫県の但馬(正確には養父郡八鹿村)で祖母と二人きりで暮らした。そこの田園風景がいまも心眼に焼き付いている。八鹿へ行く前に暮らした姫路の光景も忘れがたく、僕の心理的な故郷は、のんびりして果物と魚が豊富な瀬戸内地方だと思ってる。これから暫く住む場所は瀬戸内ではないけれど、偶然と人の親切か重なって見つかった割と近くの紀伊半島の南端です。


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