規格化・標準化の歴史について昨日は記憶だけで書いたので、今朝もいちど読み直し、本に沿って要約してみる。読んでる本は橋本毅彦著「ものづくりの科学史」世界を変えた<<標準革命>>(講談社学術文庫)。
1785年7月、ようやく独立を達成したばかりのアメリカ合衆国駐仏大使トマス・ジェファーソンがヴァンセンヌの森を訪れた。
パリの東端にあり今は城と広い森が市民の憩いの場となっているヴァンセンヌ。重要な政治犯の監獄となっていたシャトーは、この当時、政治犯をバスチーユに移し、工場となっていた。ジェファーソンはそこで製造されるマスケット銃の画期的な製造法を見学するために訪れたのだった。
画期的な製造法とは他でもない互換性のある部品によるマスケット銃の製造で、開発を進めているのはオノレ・ブランという技術者。銃の心臓部である発火装置を構成する50個の部品を、寸法、形状がまったく同じに複数作っておく。そうすれば部品が壊れ銃が使えなくなった場合も、壊れた部品だけを交換すれば、銃は甦る。
今日では常識になっている部品の互換性は、当時、まったく革命的な発想だった。独立宣言を公布した後、イギリスと交戦状態に入り、1783年に勝利したものの、新しい国の防衛のために軍備の拡充が急務だったアメリカ新政府にとって、オノレ・ブランの新しい製造法は渡りに船だった。ブランの実演を見たジェファーソンは直感的にその利点を見てとった。
兵器が戦場で故障し、交換できるパーツが無くて修理できないとなれば致命的。戦場で部品を新たに作ったり、ヤスリ掛けなどして調整してる時間などない。ジェファーソンは、オノレ・ブランの製造法をアメリカ合衆国に持ち帰った。これが現代の工業製品の規格化、標準化の起源となった。
ブランの前にもギヨーム・デユシャンという発明家が1720年代に互換性のある銃の発火装置の製作に成功していた。デユシャンはヴァリエールというフランス陸軍の兵器製造責任者の監督の下に660個の発火装置を製造し、互換性を持たせることに成功した。しかし、製造コストが通常の5倍掛かってしまった。
デユシャンは10倍の規模で製造すればコストをずっと下げることが出来ると主張したが結局は受け入れられずデユシャンの製造法は却下された。ヴァリエールは発火装置全体として互換性があれば十分であり部品まで互換性を持たせる必要はないと考えていた。
ヴァリエールは軍人として兵器の規格化、標準化の体系作りを構想していた。兵器の体系化に拍車をかけたのが、フリードリッヒ大王(Ⅱ世)がフランス・オーストリア連合軍を敵に回して奮戦した7年戦争(1756~1763)。プロイセンの軍は砲身が短く軽い大砲を持った部隊を迅速に移動させ、兵力は2倍あっても重たい大砲で動きが鈍いフランス軍を次々と打ち破った。
フランスの軍事技術者グリボーヴァルは、敗因の分析から、軽量で可動性の高い大砲を中心とした兵器体系を作り上げようとした。グリボーヴァルの兵器体系の一環として、標準規格に合った武器、さらに互換性を持った部品の製造が計画された。ブランの互換性を持つ製造法の背景にグリボーヴァルの兵器体系の計画があった。
グリボーヴァルは軽量な大砲を製造するためルネサンス以来の製造法を変え、青銅とスズの合金を中ぐり法によって均質で頑丈な大砲の製造に成功した。7年戦争から戦争の形態が変わり兵器も変わった。グリボーヴァルはマスケット銃の製造を重視してブランに互換性のある部品を組み合わせることで発火装置を作ることを命じた。ブランは発火装置の製作を4つの段階、150の工程に分けて進めた。今日のフライス盤の原型となる工作機械や、冶具(Jig)やゲージを開発して使用した。
リヨンの南西50kmに位置するサンテチエンヌは伝統的に武器の製造職人と工場が集中する街だった。軍直轄の兵器廠があるわけではなく、政府が町の兵器商と契約し、商人が武器製造職人に製造の下請けを発注する形で製造が行われていた。サンテチエンヌの職人たちに制式化が決まり標準化されたマスケット銃の製造が任されることになり、グリボーヴァルとブランは互換性ある部品を製作するために、ゲージや冶具を用いて金属の加工成形を進めるよう職人たちを指導した。
しかし、サンテチエンヌの職人たちは抵抗した。職人たちの眼にはパリの技術者が考えた製造方法は、経験のない技術者が頭だけで考えた作り方に映った。結局、製造コストが余計に掛かり、出来上がった銃も検査を通過しなかった。兵器商は政府に納入する代わりに兵器市場で銃を売りさばいた。
ここにはすでにエンジニアと職人、頭脳による計画・構想(主に合理的精神)と経験を重視し、直感、感覚を使いながら手を動かして製造に携わる職人との対立が現れている。
フランス革命勃発の年にグリボーヴァルは死んでしまい、ブランは後ろ盾を失うが、パリの陸軍病院で戦争省の長官やアカデミー会員を前に互換性技術の実演を行い、国民公会の支持を受け、さらにカルノーが起草した総動員令により、パリで5000人の労働者が30の工場で働き、日産千丁の銃が生産される計画が立てられた。
しかし、この計画は思惑通り進まず、管理者と労働者の間で賃金と労働形態に関する対立が深まり、互換性部品の製造も予定通り進捗せず技術者と管理者との対立が生じた。結局パリの製造体制は失敗し、消滅することになる。
フランスは現在もエリート技術者と管理者が国の産業経済を牛耳っているが、大革命以前から国が主に砲兵技師や土木技師を養成する伝統があった。彼等は国立の技術学校で厳格な数学や自然科学・技術の教育を受けた上で、国家の技術官僚として活躍する。彼等の受ける教育は数学のトレーニングが重視され、幾何学的な調和と合理的精神を体現するような城砦や製品の設計、生産体制の組織が目指された。18世紀フランスの啓蒙主義の時代に、これらの技術官僚は、技術的作業に幾何学的精神を持ち込むことにより、啓蒙主義的な合理精神を実現させようとした。
めのおは20年ほど前、訪れたルノーの工場に貼ってあったポスターを思い出す。そこには「幾何学の精神を重視しよう」と大きく書いてあった。
サンテチエンヌやパリの職人たちは、このような技術官僚たちの啓蒙的合理性の押し付けに抵抗した。ブランの互換性技術は、パリの製造工場とともに幕を閉じた。
ヴァンセンヌでブランの製造技術に啓発されたジェファーソンは生まれたばかりの合衆国へ、その製造法を持ち帰り、伝統や経験や職人の誇りといった非合理で複雑な心情の支配が及ばない新世界で、その普及に努め実を結ばせることに成功したのだった。
(つづく)

