クリストフの母は、祖父のジャン・ミシェルの家に女中として働いる時に、息子のメルキオールに求婚されて結婚し、ジャンクリストフを生みます。ロマンロランは赤ん坊のジャンクリストフが貧しい家の屋根裏部屋の揺り籠の中でライン河の流れの音を聴きながら感覚と感情に目覚めてゆく情景からこの大河小説を書き始めています。
ジャン・クリストフが5・6歳で作曲を始めたばかりの頃、母親ルイザの兄、ゴットフリートが、音楽というものについての、非常に素朴な、しかし極めて大事なことをクリストフに教えます。ゴットフリートは行商人で、学問も無く楽器を弾くことも出来ません。でも、ずっと昔から民衆に引き継がれて来た民謡を、悲しい時、嬉しい時に、歌いたい気持ちになった時に歌うことが出来ます。初めてクリストフがゴットフリートが川端で歌うのを聴いた時、その歌が持つ深い感情に打たれます。
音楽は作曲するものと思い込んでいるジャンクリストフはゴットフリートに「他の曲はつくれないの?」と訊きます。
「どうして、わしがほかに作る必要があろう?」ゴットフリートは訊きかえします。
「偉い人になるためにだよ!」子供のクリストフは祖父のジャン・ミシェルが教えた通りを信じています。
*** *** ***
ゴットフリートはやさしい笑いをかすかに見せた。少々癪にさわったクリストフはきいた。
「なぜ笑うの?」
ゴットフリートは言った。
「おお! わしは取るに足らない者さ」
そして子供の頭をやさしくなでながらきいた。
「じゃ、お前は偉い人になりたいんだね?」
「そうだよ」とクリストフは得意げに答えた。
……(中略)
「お前は偉い人になりたいために、歌を作りたいという。そしてまた、歌を作りたいために、偉い人になりたいという。それじゃ、まるで、自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回る犬みたいだ……」
クリストフはひどく感情を害した。……
「歌を作るには、あんなふうでなくちゃならないんだよ。お聞き……」
月が、野原のかなたに、円く輝いて上っていた。銀色の靄が地面すれすれに、またきらきら光る水の面に漂っていた。蛙がおしゃべりをしていた。牧場では、蟇(ガマ)の声が旋律的なフルートの音のように聞こえていた。蟋蟀(こおろぎ)の鋭いトレモロは、星のまたたきに応えているようだった。風は榛(はん)の木の枝を静かにそよがせていた。川の上の丘からは、鶯の弱々しい歌がおりてきた。
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上の最後の数行。自然との共感がロマンロランが書くものの随所に見られます。
「ミスチック」ということなんだろうか? 再読にあたって考察の対象にしたいテーマです。
クリストフはゴットフリートを理解したと思い、伯父さんが好きになります。伯父さんもクリストフを理解したようでした。それからは、ふたりは度々一緒に散歩に出るようになります。クリストフは伯父さんが歌ってくれないか、待ちますが、気持ちが向いた時でないと歌わない伯父さんに、自分が作った歌を聴かせたら歌ってくれるかと思い、祖父も誉めてくれた小曲を歌ってみせます。
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「こいつはまずいね、気の毒だが!」
クリストフはくやしくて、返事もできなかった。ゴットフリートはあわれむように言葉を続けた。
「なぜそんなものを作ったんだい? 実にまずいね!だれも無理に作れと言ったわけじゃないだろうにね」
(クリストフはありったけの曲を歌ってみせますが伯父さんは、甥っ子が歌うのを全部聴き終ると、頭を振って、きっぱりと言います。「なおまずいな」)
「実際まずいな!」
「だけど、なぜまずいって言うの?」
「なぜだって?……わしには分からないな……お待ち……そうだ、実際まずいよ……まず第一に、馬鹿げてるからね……そうだ、それだ……馬鹿げてるよ、まるで無意味だ……そこだ。あれを書いた時、お前はなにも言うことなど持っていなかったのだ。なぜあんなものを書いたんだね?」
「分からないよ」とクリストフは悲しそうな声で言った。「綺麗な曲を作りたかったんだ」
「そこだ! お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、ひとに誉めてもらうために書いたんだ。お前は傲慢だった。お前は嘘をついた。だから罰せられたのだ……そうだ、そこだ! 音楽では、傲慢だったり、嘘をついたりすると、必ず罰を受けるのだ。音楽は謙遜深いことを、誠実であることを望んでるんだ。そうでなかったら、音楽はなんだろう? 神さまに対する不敬だ、冒涜だ。ほんとのこと、正直なことを言うようにと、わしらに美しい歌を下すった神さまに対するね」
(つづく)
(新潮世界文学全集23 ジャンクリストフI ロマン・ローラン 新庄嘉章訳1961年発行)