「指揮を執ることの無能。1940年の敗北は、まず、軍事的な敗北であり、それは当時の軍部や一般の人々が信じようとした数の上での劣勢でも、軍備(武器)の上での劣勢でもなく、知的な、また行政的な破産に起因していた」
上の一文は、ヨーロッパ中世史の専門家、マルク・ブロックが実戦に加わった体験をもとに、当時のフランス軍の弱体ぶりを記したものです。
マルク・ブロックは、1921年から1936年まで、ストラスブルグ大学で、ついで1936年からはソルボンヌ大学で経済史を教えていましたが、知識人としては珍しく、1939年8月に、その年齢からも、扶養家族がいることからも兵役は免除になる身でありながら、ナチス・ドイツと戦うために進んで志願します。第一次大戦でも前線で戦い大尉となって終戦を迎えましたが、第二次大戦でも、大尉の資格で戦闘に加わりました。
ユダヤ人であったマルク・ブロックは、休戦協定が結ばれ、ヴィシー政府の反ユダヤ政策により公職から追われます。レジスタンス組織「Combat 闘い」に加わり、1943年からは完全に地下に潜入し、リヨンを中心に南仏で活躍した義勇軍「フラン・チルール」(「Franc-Tireur 」。時にスナイパーの意味で使われることもある。ここでは組織の名前)の代表を務めました。リヨンが管轄する10の地方の蜂起の準備をしましたが、1944年3月8日に逮捕され、6月16日、終戦の直前にトラックで運ばれる途中、射殺されました。戦争の体験を記録して後世に資そうと「奇妙な敗北――1940年の証言」をノートに書き、原稿は仲間のレジスタンスの手で隠され、ナチスの手で破棄されるのを免れました。
そのマルク・ブロックが1940年に敗戦を喫したフランス軍をこう批判しています。
「書類の過剰、連絡網と情報の組織化の悪さ、階位・階級の過剰、上層司令部の細分化、課とその長の間の敵対心、本来の規律とは何の関係もない『躾け』のルーテイン化、「経歴(問題を起こすこと)」への恐怖と制裁への反発、責任感の希薄化、等々……」(マルク・ブロック「奇妙な敗北」folio版のスタンレイ・ホフマンによる序文から)。
上の、ブロック大尉の証言はシャルル・ド・ゴールが感じ、軍上層部への侮蔑と批判となって、反逆を企てる上での基本的な認識と共通していますね。
ここで、先回触れたドレフュス事件に関して。ハンナ・アーレントはドレフュス事件を分析して、フランスの軍部が抱える「イエズス会」と共通する欠点は「カースト」だと言っています。
「 高級将校団は依然としてフランスの古い貴族の家柄の師弟からなっていたが、彼らの祖先 は革命戦争中フランス人亡命者として対仏同盟軍に加わりフランスに弓を引いたのであった。 すでにこの貴族将校たちは、フランスでは革命以来反動派や反共和派運動を力づけてきた聖職者の影響下にあった。 軍はカーストというものに特有のあの排他性にとりつかれていた。これらの将校たちを団 結させ共和制および民主主義的な勢力に対する防壁たらしめていたものは、軍人精神でも職 業の誇りでも団結心でもなく、もっぱらカースト精神だった。 」
「ヨーロッパのあらゆる悪を集大成したナチはイエズス会にも学んでいる。ナチの有名な党員養成所(オルデンスブルグ)は偶然にこのように名乗っているのではな い。この名はなによりもイエズス会のオルデン(修道会)を連想させ、それゆえ個人の良心 をしりぞけることと規律および服従とを人間共同体の第一の構成要因とすることを思わせる。キリスト教の中に居ながら秘蹟というものを無視するほどのユダヤ人憎悪を抱いたのはイエズス会をもって嚆矢(こうし)とする。
その会規に従えばイエズス会士にとっては受洗し たユダヤ人といえども決してユダヤ人であることを已めなかったのだ。ユダヤ人を迫害する だけでは満足せずに、数百万の住民についてユダヤ人の血ではないことを証明するために祖 先調べをおこなったあの反ユダヤ主義の先例を求めるならば、それはイエズス修道会以外の どこにもない。イエズス会は1598年以来、五代前にまでさかのぼってユダヤ人の血の混 じっていないことの証明を求め、1923年にはこの規定を(緩和)して四代前までユダヤ の血のあるものは入会を許さぬことにしたのである。(そして十九世紀初頭以来教会の国際 政治の主導権は彼らイエズス会士の手に移っていたのだ)」 (ハンナ・アーレント「全体主 義の起源」反ユダヤ主義 p196)
ナチス内部でもユダヤ人の大量殺戮に気づき行動した人間がいました。ナチ親衛隊将校クルト・ゲルシュタインは自分が開発したガスがユダヤ人の大量殺戮に使われていることを知り、バチカンへ訴えますが黙殺されました。この事実をドイツ人作家が書いた「神の代理人」(19 63年)、またそれを台本にした映画「アーメン」(2002年ベルリン国際映画祭公式出 品作、コスタ・ガブラス監督)は有名ですね。時の教皇ピウス12世はナチス贔屓でした。
映 画ではイエズス会の若き修道士、リカルド・フォンタナがゲルシュタインとともに教皇に訴 えますが聞き入れられず絶望のあまり自ら胸にダビデの星をつけ収容所に入れられ殺されま す。遠藤周作さんの「女の一生」に出てくるコルベ神父とともに、イエズス会とキリスト教 徒がナチス収容所に入り自ら犠牲になる稀な例ですね。ハンナ・アレントが問題にしているのは体制としてのイエズス会の反ユダヤ主義ですね。ここに「イエズス会」と挙げたのも、 もちろん例外的な神父ではなく、ドレフュス事件以来の強固な保守体制を作っていた会のことです。
階位・階級に対する無思慮な迷信に似た絶対的尊崇の念。ド・ゴールは、そうした理不尽な上層部の故に戦闘に負け、その上層部のだらしのなさが調印した休戦協定に「ノン」を突きつけ、己独りが立つしかないと覚悟を決めて、死刑の判決にもめげず、ヴィシー政権に反旗を翻したのですね。49歳にして、前代未聞の「冒険」に乗り出したのでした。
ド・ゴールはロンドンに「自由フランス」を作った当時、ネイションとステーツ(nationと etat)について考えたと書いています。ステーツが理不尽な時、たった一人でも、ガリア人を祖先とするフランス国民(ネーション)である自分が正しいと信じるところに従ってステーツに楯突いて闘う姿勢。ド・ゴールはナポレオン以来の稀有な国家的政治家と歴史家は言います。
彼の反逆は、もちろんチャーチルという偉大な政治家の援助と、アメリカ合衆国の巨大な力を抜きにしては勝利しえないものだったのは確かです。
レジスタンスについては、まだ認識が足りないし、少し時間を置き、機が熟してから投稿します。今言えることは、最初から組織的なレジスタンスがあったわけではなく、最初はフランスの各地で自然発生的に、サボタージュやゲリラ活動が行われ、山林に隠れて武装訓練をしたヴェルコール山岳地帯の「マキ」と呼ばれる義勇軍や、ナチスがソ連に侵攻してからは共産党の武装闘争も加わったり、上
に挙げたマルク・ブロックのようなユダヤ人によるレジスタンスとさまざまな形態が存在しました。
最後にひとつだけ。休戦協定はフランスの2万人以上の市町村をすべて「無防備都市」としました。武器を持ちこんではいけないことになったため、レジスタンスにとって甚だしい困難を齎しました。
(連載の終わり。最後までお読みくださりありがとうございました)
