メトロ・ビラケム駅はセーヌに懸った橋を電車が渡った直後の陸橋の上にある↑
めのおがパリに着いたばかりの1975年のこと。自費留学で、働いて貯めたお金もそろそろ尽きかけていたので、何かアルバイトはと探したところ、ミニコミ日本語新聞の翻訳という仕事が見つかった。観光客相手の日本語新聞ながら、編集者と社長自らが記事を書くのだが、ふたりともフランス人で、日本語がまったく分からないというヘンナ会社だった。
「ドアを開けた秘書の婦人に用件を言うと、僕を中に入れて取次いでくれ、すらりと背の高い男が奥の部屋から出てきた。歳は四十前後、爽やかな香水の匂いを漂わせている。茶色がかったブロンドの髪に赤味を帯びた肌。白い歯と青い眼が目立つ知性的な顔。テニスや乗馬で磨いたようなスリムな身体から、上品でラフな人柄が矛盾なく滲み出ている。」(初稿「アンナへの贈物」より)
実を言うと、この会社の編集長がピエール・ラヴァルの孫か曾孫に当たる人だった。そして社長はジョルジュ・クレマンソーの曾孫に当たる人だった。会社は秘書のマダムを入れ、社員がたった3人のミニ新聞社だった。
めのおはその当時、クレマンソーの名前は知っていたが、ラヴァルの名前を聞いても、どんな人か全然知らなかった。
会社にはSさんという、日本女性が創業当初からタイピストとして働いていた。女子プロレスラーを思わせる体格豊かな女性で、肩の筋肉が盛り上がり、二の腕もめのおの脚くらいに太かった。採用されてすぐ、初対面の挨拶を交わしたのち、会社の近くのカフェーで話をした。
「クレマンソーというと、あの石油の一滴は血の一滴と言った……?」
「そうよ。曾孫だって」
「すごい有名だから財産もあるんだろうな」
「お金なんかぜんぜん持ってないわよ。奥さんの方が金持ちよ。ラヴァルの方が金持ちだわ」
「ラヴァルって編集長の?」
Sさんは頷いた。
それまでに僕はラヴァルに二三度会っていた。クレマンソーは背も高く、スポーツマンタイプで、テニスや乗馬など上品なスポーツが似合う、ハンサム(今でいうイケメン)ボーイで、「アメリカの映画スターロバート・レッドフォードの張り出たエラを削り、両眼をずっと内向的にすると面前のフランス人になった」と初稿では書いた。
それに比べ、ラヴァルは、いかにもフランス人といった、ずんぐりむっくりの体つきの農民タイプの男だった。度量のあるというか、懐の深そうな、農園の主人といった感じで僕は親しみを感じていた。
クレマンソーは数年前までアメリカで暮らし、ニューヨークのヴォーグ誌に勤務していたとSさんは教えてくれた。写真が趣味で、この新聞を始めたのも、自分で撮った写真を一面に飾れるからだった。新聞の過去記事には、二人がこの新聞を始めるいきさつを書いたものがあり、それを読んでみると、ふたりは友達だったということだった。ある日、日本人観光客が年間100万人も訪ずれるパリを主体に、質の高い、観光案内とブランド品の広告を載せて趣味と実益を兼ねた新聞を作ろうと意見が一致し、新聞を始めたと書いてあった。
ふたりとも日本語がまったくだめで、記事はフランス語で書き、日本人の学生アルバイトに日本語に訳させ、Sさんが活字タイプで版下を作るのだった。編集過程で、帯状のコラムを途中で切ると、もう繋ぎが分からなくなってしまうことがたびたびあった。ちょうどラヴァルが、そうやって困っているときに僕が顔を出したので、救いの船とばかり編集室に入れてくれ、繋いであげると喜んでくれ、それからは、単に翻訳のバイトだけでなく、編集助手として時間給で報酬を払ってくれるようになった。
そんなわけでラヴァルに僕は親近感とある意味感謝の気持ちを抱いていたのだった。
Sさんはこんなふうに愚痴をこぼした。
「あたしはふつうのタイピストとはちがうんだから。テイポグラフって、活字を一字一字拾って打つ特殊技術者なんだから。労働許可証を貰ってくれって、もう1年以上働いてんだから、闇労働じゃなしに、ちゃんと雇ってくれって要求してんのに、クレマンソーはぜんぜんだわ。ラヴァルの方がまだ、なんとかしてやるって言ってくれてるわ」
この新聞社で働いたのは、わずか半年くらいの短い期間だったが、屋根裏部屋の部屋代の足しにはなったが、とてもそれだけでは暮らして行けないので、やがてパリで知り合ったC君がアルジェリア勤務になり、その会社が獲得を狙うプロジェクトの入札書類を作るためのサーベイに一か月ほどの通訳が必要だがやる気はないかと問い合わせてくれたので、新聞社は、大学の同期の男に引き継いで、アルジェリアへ出稼ぎに行ったのだった。
ラヴァルはその前に、画商を紹介してくれ、僕は、現代版画の販売に日本まで付いて行った。この仕事で現代絵画についていろいろ学んだ。その時の経験を基に「アンナがいたパリ」を書いたのだった。
しかし、この小説を書こうとおもいたった動機には、ラヴァルの祖父が、ペタン元帥を押し立ててヴィシー政権の実質上の構築者兼政策執行者であったピエール・ラヴァルについて、後に知ることになったからだった。
特に、1990年代の終わりに、フランスでは、ナチス占領時代のユダヤ人迫害問題が取り上げられ、テレビや、パリ市庁舎で展示が行われたのを観たり、「ヴェルデイヴ」について取り上げられたことを機に、ヴィシー政権について少しづつ調べ始め、ピエール・ラヴァルが、ナチスの将校も驚くくらい積極的に、反ユダヤ政策を進めていったことを知って、暗澹たる思いに打たれたのだった。
ラヴァルは、ナチス将校を前に、フランスの方がドレフュス事件などで、ユダヤ人迫害に関してはドイツより進んでいると自慢さえしたのだった。
とりわけ、新聞社でラヴァルの孫に世話になり、親切にしてもらった良い思い出があるため、僕の思いは複雑だった。祖父なり曽祖父なりが「国家反逆罪」という大罪を犯した罪により銃殺刑に遭った。むろんその孫なり曾孫なりはなんの責任もないのだが、そういう祖父なり曽祖父なりを持つという事は、その人の人生に重い荷物を背負わせることになるだろうと思った。
ペタン元帥とピエール・ラヴァルが写った写真を見て、僕が出会たラヴァルとそっくりなのに衝撃を覚えた。
「ヴェルデイヴ」事件というのは、今日ではフランスの若者でさえ、知ってるひとは少数なのだが、1942年7月16日の夜から17日の朝にかけて、パリの警察が、ユダヤ人の一斉検挙を実行し、女子供を含めた1万4千人を、かつての冬期競輪場 Velodrome d'hiver ヴェロドローム・デイヴェールに閉じ込め、水も食料も毛布も与えず3日3晩、置いた末に、パリ郊外の収容所や、パリ南西100km、オルレアンの近くの村、ピチヴィエとボーヌ・ラ・ロランドの収容所へ送り、そこから更に家畜用運搬貨車に詰め込んでアウシュヴィッツとビルケナウの最終処理場(ガス室)へ送り込んだ事件である。
この冬期競輪場はかつて万博のパヴィリヨンとして立てられた建築物を改築したもので、エッフェル塔の西側、セーヌ河岸のメトロ・ビラケムとかつて日航ホテルがあったグルネル地区の間にあった。(現在では日本文化会館の最寄り駅がビラケム Bir Hakem ですね)
ユダヤ人たちは寝こみを襲われ、隠れる暇もなく警察の護送車に乗せられこの競輪場へ運ばれた。この事件の写真はたったの一枚しか今日残っていない。フランスはこの事件をなかったことにしたのである。秘密情報どころか無に帰せられたのだった。
パリ市庁舎の展示では、警察に残されたユダヤ人の個人別カードが展示されていた。ヴィシー政権が発足して間もなく、1941年からパリ警察はユダヤ人の個人別カードを作り始め、ついで胸にダビデの黄色い星のマークを縫い付けさせ、そこにユダヤ人と明記させた。カード1万数千枚だけが残り、人間は消し去られたのだった。
被害者の家族や、ユダヤ人の執拗な訴えにより1990年の後半になってやっと「ヴェルデイヴ」事件が公になり、あおの記念碑がメトロ・ビラケム駅の近くに作られ、時の大統領ジャック・シラックがフランスが犯した過ちを公に認め謝罪の演説をしたのだった。
一斉検挙で駆り立てられたユダヤ人たちが住んでいたアパートはナチスが押収し、ドイツの財産となった。他にも、ユダヤ人が経営していた企業が没収され、絵画美術品の9000点が貨車でドイツへ運ばれた。最終的解決の収容所で待っていたのは死への旅路でしかなかった。裸にされガス室へ送られ殺された後、髪の毛を刈られ入歯を抜かれ、ときに皮膚を剥がれてランプの傘に使われた。殺される前、生きたままでこういう処理をされた者もいるというし、生きながら燃えたぎる窯に放り込まれた者もあるという。
つい先月だったか、ナチが押収した美術品1200点が壁に隠されていたのが発見されたと報道されたように、未だにこの時の財産の処理はついていない。殺されたユダヤ人がスイスの銀行口座に貯えていた金を、家族が返還を申し立てると、死亡証明書をもってこいだとか、いろいろ言われて取り戻すのは不可能に近い。ごくまれにアメリカの家族が返還に成功したとかのニュースがあるだけで、ナチスが没収した財産の返還処理は始まったばかりなのだ。スイスは戦前貧乏な国だったが、ナチスへの武器供給を請け負い、第二次大戦のお蔭で金持ちになったといわれる。
とまれ、ラヴァルという短い期間ではあったけど、個人的に世話になった人の親族と関係あるヴィシー政府だけに、その歴史を調べてみたかった。「アンナがいたパリ」を書いた時点では、まだ良く知らなくて、書きながら掘り下げが足りないと自覚があったのだが、時系列で一応のヴィシー政権成立までの歴史と、ラヴァルが果たした役割を一通りは把握は出来たものの、まだ十分でない気がする。
それは、人間がなぜこうした恐ろしい大量殺戮を平気で犯してしまうのか? という疑問です。ナチスが絶滅を決め、現代的な工業的システムを構築したうえで、殺戮したユダヤ人の数は少なく見積もって600万人。計画では1100万人に達していた。他にも、ロマとか同性愛者、精神病患者たちを百万単位で殺戮している。
ヒトラーがヘンリーフォードの崇拝者であり、ヘンリー・フォードもユダヤ嫌いで「シオンの賢者の議定書」という偽の(デッチあげ)の本を出版したりフォードが経営していた新聞に掲載したり、ヒトラーもこの本を来訪者にプレゼントしていた。現代の大量生産システムがユダヤ人の絶滅、最終的解決に利用された。
ヴィシー政権のペタン元帥とラヴァルがヒトラー・ナチス・ドイツの最終的解決をどこまで知っていて積極的に協力したのか? その辺をもっと調べてみたい。ペタンもラヴァルも反ユダヤだったし、とりわけフランスの軍部は19世紀の「ドレフュス事件」の流れを汲んで伝統的に反ユダヤがあり、そして、ハンナ・アーレントによれば、フランスのカトリック、とりわけイエズス会にも、伝統的に反ユダヤがあり、そして驚いたことにはナチスの組織は、このキリスト教の布教に為の戦闘的な集団「イエズス会」に学んだところがあるという。しかも、ナチス・ドイツに最後まで抗戦し連合国の助けを借りてついにフランスを解放に導いたシャルル・ド・ゴールは敬虔なカトリックであり、その父はイエズス会の学校の校長を務めた人だったのである。
この連載はまだまだ続きそうですが、シャルル・ド・ゴールの生立ちを最後に一旦締め括り、次からはタイトルを「レジスタンス」に係わるものに変え、気持ちを新たにして投稿したいと思います。
(つづく)
