1期目は1926(大正15)年2月8日に、病身を気遣った母の意向でパリまで祐三を迎えに来た兄、裕正に連れ戻され、一旦帰国するまでの期間。翌1927(昭和2)年8月には、再びパリに向かったのが2期目と呼ばれています。
佐伯一家が住んだリュ・デユ・シャトー13番地のすぐ近くには「靴屋」、「絵の具屋」、「引越屋と書かれた古い壁の家」などがあった。
パリのモンパルナス駅の南側、すなわち、カルチエ・ラタンやルーヴルやシャンゼリゼなどのパリの中心から見て、駅の裏側の地区一帯は、立ち並ぶ建物の高さも低く、都会の中にあって田舎風の雰囲気を湛えた庶民的な界隈だった。再開発で駅周辺はすっかり変わってしまったが、今でも、少しはその面影を残す一郭はある。モンマルトルの丘の周辺もブドウ畑や風車が残っていたりして、ゴッホなど画家はまず、モンマルトルに集まり、ついでモンパルナスに集中した。
佐伯は好んで庶民的な、生活の匂いの感じられる風景を描き始める。レストランの正面を描いた「デユメニル・ビエール」。ビールの商品名が軒下に書かれたレストラン↓
そして、この時期の白眉、「コルドヌリ」5部作が完成する。
CORDONNERIE (靴の修理屋)と上部に書かれた古い壁を画面いっぱいに描いている。
この絵が描かれたのは1925年のことで、佐伯は自らの「純粋」を推し進めた結果、この画面に辿り着いた。後で詳述するけど、これを描いたというだけで佐伯は、日本のみならず世界の絵画史に不朽の名を留めることになったといっても言い過ぎではないと、僕は思う。
「コルドヌリ」は5枚描かれ、その中の自信作が、9月の第18回サロン・ドートンヌに入選。初日に、ドイツの絵の具会社に売却された。売却された絵はその後、行方不明となっているので、いつかは出てくるのか? 小説を書くうえでとても興味深い。
佐伯は、パリの古い石の壁を描くにあたって、職人が使う刷毛を用い、事前にアトリエで新聞紙を使い練習したという。このことも、第二次大戦後にリリカル・アプストラクト(または単にアンフォルメル)の旗手として一躍崇められたアルトウングに先行した試みと言える。
佐伯は年代を経た古い壁の質感を追求した。とともに深い味わいのある色彩を重視し、面の構成に執着しはじめ、遠近感やパースペクテイヴなど、従来の絵画が捉われていた3次元を感じさせるための陰影とか立体感とかを無視するようになる。
佐伯がひとり「純粋」を目指して孤独な精進を重ねた結果、こういう絵に1925年という年にすでに到達したことが、感動を呼ぶ。
なぜなら、絵画は第2次大戦後、抽象絵画が前衛となり、アメリカを中心に花開くのだが、佐伯のこの絵には、すでに、マーク・ロスコのアンフォルメル、ジャクソン・ポロックのアクションペインテイング、そしてヨーロッパでは、フォートリエ、アルトウング、先日亡くなった中国系のザオ・ウーキーなど「絵画は平面であるべきだ」という潮流の先駆けとなるからである。
佐伯が、パリ滞在中に、モンドリアンの理論に触れた形跡は、少なくとも今まで世に出ている佐伯に関しての本には見当たらない。セザンヌ、ゴッホ、ユトリロの絵を見た。セザンヌの理知的な画面構成は、立体派(キュービスム)へ、そしてモンドリアンによって「純粋絵画」すなわち抽象絵画へと推し進められる。
モンドリアンは1912~1914年、第一次大戦勃発までパリに住み、キュビスムの理論に従って、事物の平面的、幾何学的な形態への還元に取り組む。その過程で抽象への志向を強め、「キュビスムの先」を目指すようになる。
「キュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリテイの表現へと向かっていないと思うようになった」とモンドリアンは書き、そのリアリテイの表現が「純粋造形」によってのみ確立され得ると感じ、より一層の表現の探究に向かった。
1914年オランダに戻った後、1917年、ドースブルフと共に芸術雑誌「デ・ステイル」を創刊。ここで「新造形主義」と呼ばれる理論を展開。
「宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要である」として、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行を追求、1921年に代表作「コンポジション」の作風が完成された。
モンドリアンは「純粋な、リアリテイと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない」と書いている。
3次元を追求したいのなら彫刻か建築を目指せばよい。絵画は2次元の平面に固執するべきだ、と、考えてみれば、もっともな極あたりまえのことのように思える。「従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれなければならない」とこの前衛画家は考えた。1938年にロンドンへ行き、1940年にモンドリアンがニューヨークへ移住したこともあって、戦後は絵画の中心はパリからニューヨークへ移った。
「純粋絵画」を定義するとこういうことになる。
「絵を平面としてとらえ、額縁を取り除き、何かの描写ではない、ひとつのそれ自体として完成された表現としての絵」
抽象絵画のもう一人の創始者カンデインスキーは、「絵は外界を写すものではなく内面の表現であるべきだ」として色彩と形、線を使って音楽に近い絵を描いた。
モネの積藁の絵を見て色彩表現にインスパイヤされたとも語っている。1910年にミュンヘンで最初の抽象画を描き、1918年にモスクワに戻る。面白いのは、当時のソ連では、前衛芸術はレーニンによって「革命的」と認められ、カンデインスキーは政治委員を務めた。後のフルシチョフが「抽象絵画はブタのシッポ」と揶揄したのはスターリンの芸術音痴を引き継いだせいだという。
(つづく)

