フランスと日本人画家 その⑭ | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

1924(大正13)年も押し詰まると、里見、前田の帰国も迫り、ヴラマンク・ショックからようやく立ち直った佐伯は、そろそろパリ北西(オワーズ河周辺)の彷徨に見切りをつけ、再びパリ市内へ移住することを考える。

ちょうどその頃、京都出身の川端弥之助がモンパルナス駅南東のリュ・デユ・シャトー13番地、4階の岡田毅(みのる)が、近々南仏へ転居するという情報を佐伯にもたらした。

川端は、岡田の転居を確認し、改めて連絡する積りでいたのに、思い込んだら前後の見境なく行動してしまう佐伯は、岡田の転居1週間前には、クラマールを離れ、かつてのオテル・ソムラールに飛び込んだ。兄宛の11月29日付け手紙。

「1週間前ヨリ巴里にきました。田舎を引き上げて――只今ソムラールに居ますが二、三日の中に宿ヲカへます。さて今自分は米子が病気(熱)の為金が必要で二月はじめにいただく御金を一月のはじめに電報カワセデオクッテ頂きたいのです」

佐伯一家は無事、リュ・デユ・シャトー13番地の4階に居を定めることが出来、これより約1年1か月のパリ生活が始まる。

佐伯一家が住んだ、リュ・デユ・シャトー通りの若い番地は、1980年代に行われたモンパルナス駅周辺の再開発に呑みこまれ、現在はTGVの発着ホームと拡張されたパストゥール通りに変容してしまっている。

佐伯が引っ越してすぐにアトリエの窓から描いた「リュ・デユ・シャトー」が現存する。めずらしく Uzo Saeki とサインが入っている。ヴラマンク流の荒い筆触とプルシャンブルーは後退している。(画像は残念ながらグーグルに見つからない)

1925(大正14)年1月、佐伯は、ベルネーム・ジューヌ画廊で開かれた「ゴッホ展」でゴッホの絵を50点、さらにフォーブール・サントノレの「バルバザン画廊で「ユトリロ」の絵63点を観る。

山田に宛てた手紙
「先日ウッチェロ(ユトリロ、フランス人はユ《ウとユの中間の音
リヨと発音する)の70枚のスバラシイ展覧会を見た。スッカリウッチェロをスキになってしまった。ブラマンクヨリスキな点もある位スキになった。ブラマンクがセザンヌのキモチをモツナラウッチェロはゴーグ(ゴッホ、フランス人は佐伯の書く通りゴーグと呼ぶ)だね。(中略)ドランやピカソヨリ自分はウッチェロの方がスキニなった。」

1月23日金曜日、3年8か月滞在した里見勝蔵は、リヨン駅から帰国の途に就き、佐伯は駅へ送りに行った。「帰国したら一緒にグループをつくろう」と約束した。これは、1926年に里見、前田、小島、木下に佐伯が加わって結成した「1930年協会」として実現する。

こうして佐伯のパリ一人歩きが始まる。地図を片手に連日冬の14区、15区の街角にイーゼルを立て、寒風に上着の襟を立て、里見がイタリア広場近くで買った赤いとっくり首のセーターを着ていた。


フランスの田舎暮らし-街頭の佐伯

              街頭で制作中の佐伯。弥智子が居る。左奥にもう一人画家が見える。

リュ・デユ・シャトーがメーヌ通りに突き当たる手前に、3本の細道と交差する地点が、「モロ・ジャフェリ広場」で、佐伯はここにも三脚を立て、冬の景色にエスカルゴと呼ばれた簡易トイレ(ピソチエール=小便所)を入れた。ピソチエールは今はコンクリート製の有料トイレになったし、佐伯の絵の左端の空には50階建ての高層ビル、モンパルナスタワーが見える。


フランスの田舎暮らし-モロジャフリ

ピソチエールという言葉はモジリアニの晩年を描いた映画「モンパルナスの灯」に出てくる。冬の暖炉に焚く薪も買えないアトリエで、貧困と闘いながら絵を描く画家のところへ、友人の画商ズボロフスキーが絵を買ってくれる客が現れたと、飛び込んでくる。ホテル・リッツに滞在中のアメリカ人富豪の許へ急き立て、セザンヌの絵を買ったと自慢げに見せる富豪に数枚の絵を見せたところ、女性の眼が青く塗り潰されたのを見て、富豪は言う。

「いい考えがある。こんどウチの会社で香水を売り出すんだ。この絵を香水の瓶と箱に使おう。ポスターにして方々に張り出すんだ」

俗物性を隠そうともせず自慢げに打ち明けたアメリカ人を、「こいつは、商売を自慢し、人間の悲哀がわからない俗物だ」と直感したモジリアニは、
「僕の絵を広告に使うんですか?あちこちに張り出す……ピソチエール(小便所)にもね」と皮肉を言って立ち上がる。

モジリアニは、せっかく買うと言ってくれている富豪のもとを立ち去ったのは、芸術家としての純粋性と気位のためだったと反省し、妊娠中で食べる物もない愛人のユビテルヌを思い、デッサンを掻き集めて、ロトンドなどカフェーに売りに行く。客席の間を縫って「デッサンいかが……」と売り歩くが一枚も売れない。

額には汗が噴き出て
眩暈がし、おぼつかない足取りで夜霧の石畳の上を歩く画家の跡をつけるのは狡猾な画商モレル。結核に蝕まれ、アルコールで衰弱し、路上に倒れた画家を、警察病院に運び込み、死を見届けたのは、この画商だった。画商は、急いでモジリアニのアトリエに駆け付け、待ちわびるユビテルヌから、そこにある絵の一切を二束三文で買い取ってしまう。

余談が長くなったけれど、佐伯の「レストラン・オ・カドラン」も、この近くのこの時期の作品ですね↓


フランスの田舎暮らし-オカドロン

このレストランは、現在でも残っているようです。

 
  (つづく)

ペタしてね 読者登録してね