「ケンキュー所は先日一週間行ってそれきり通ひません。風景や静物を描いてゐます。私の画はすっかりかはってもうあんなルナール(ルノアールのこと)なんかかいてゐません。昔の画にかへりました。今いろんなことをかんがえてゐます。あんまりかへがへる(考える)といやになる事もありますね。僕は実にのんきな事を言ってるがこれでも、一寸シンケンな所もあるのです。」
これは、1924年1月3日にパリに着いて、3か月後の4月半ばに親友の山田新一に送った手紙の一節です。原稿用紙と洋紙を7枚も使った長い手紙でした。
野球少年だった佐伯祐三。左から2人目↑
同じ手紙を続けます。
「セザンヌの画は随分沢山見ました。ルーブルで三枚、画商で四、五枚、ベルネームジュンの本宅で二、三十枚見ました。それに、ベルネームジュンのミセで先日セザンヌの展覧会がありました。二、三十枚ありました。実に感心します。里見さんは今セザンヌよりブラマンクをとってゐます。僕もブラマンクはスキです。このごろのブラマンクはもうあんなアバレタダケではありません。実におちついてゐて実にしっかりとした元気のある画です。リクツから行ってもセザンヌはコーズだけどセザンヌもよろしい。君に見セタイと思います。先日現代の人や近代の人の覧展会(展覧会)の一寸よいのを見ました。よい人には、ゴーガン、セザンヌ、ルノアール、ドーミエ、ルーソー、それに現代の、ブラマンク、ドラン、マチス等があります。ドラン、ブラマンク、ゴーガン、ルーソーにかんしんしました。君もひまの時手紙を下さい。サヨーナラ」
ベルネームジュンと佐伯が書いているのはベルネーム・ジューヌ(Jeune 若い、人名では、子の、弟の、意味)のことで、ここでセザンヌ展が開かれ、油彩五十点、水彩十三点が展示された。佐伯は里見と一緒に二度見ている。
「近、現代のフランス美術展」は、ブローニュの森の近く、外交官のルナール・ペルラン邸でのコレクション展で、里見と一緒に見ている。佐伯が列挙している画家には、なぜかゴッホとピカソが抜けているが、アバレタダケのフォービスト、ブラマンクは、佐伯が指摘するとおり、セザンヌの回顧展後、フォルム(造型性)志向へ入っていた。
パリへ着いた初期の佐伯は、セザンヌの影響を直接に感じさせる「パレットを持つ自画像」(1924年)を描いている。
佐伯祐三は、大阪は淀川辺りの中津駅近く、房崎山(ふささきざん)光徳寺の住職佐伯祐哲・タキの四男三女の次男として1898(明治31)年4月28日に生まれた。
父祐哲は、1920年(大正9年)祐三が美術学校在学中に亡くなり、祐三と2歳違いの兄、裕正が跡を継いだ。兄裕正は祐三が2度目のパリ滞在中に30歳の若さで亡くなるまで、祐三の生活と美術活動を支えた。
もう一人、佐伯祐三が画家を志し、パリへ来る動機を育む契機を作った人物に、父の兄慈雲の次男、浅見憲雄(のりお)がいる。憲雄は美術、音楽に理解が深く、早稲田大学に在学中も大阪に帰るたびに、まず光徳寺に直行し、裕正、祐三と兄弟のように育った。裕正が後に光徳寺内に楽浪(がくろう)園を建て、祐三が美術学校西洋画科を目指したのも、憲雄の影響と言われている。憲雄が持ち帰った文芸誌「白樺」によって、祐三は、セザンヌ、ミレー、ゴッホなどを知ったのだった。
しかし、その憲雄は大学卒業前に肺結核のために死去してしまう。さらに裕正、祐三の弟、祐明も20歳で結核のために死亡する。いまでこそ、結核は死病ではなくなった感があるけど、この時代、結核は最も死亡率の高い病だった。そして、佐伯祐三もパリへ着いた時にはすでに感染していたのだった。
1924年(大正13年)パリ15区のシテ・ファルギエール14にある里見勝蔵のアトリエに突然6人の日本人が現れた。6人の中に、襟元まで伸びた髪、色あせたプルシャンブルーの労働服。避難民そのものの格好をした青年がいた。里見は瞬間、関東大震災から避難してきたかと思ったという。それが佐伯祐三だった。佐伯は和服で着飾った米子夫人と二歳になる娘の弥智子を伴っていた。佐伯一家に、西村叡(みのる)とその夫人、それに大阪時代からの友人木下勝治郎が一緒だった。
マルセイユから佐伯は里見宛てに電報を打ったが間に合わなかったらしい。その前に、里見の近所に住む中山巍(たかし)宛てにも「駅まで迎えに来てください」と手紙を書いておいたのに、神戸から乗った日本郵船香取丸のマルセイユ着が遅れたため、中山と里見には会えずに6人は2台のタクシーに分乗、里見のアドレスを運転手に見せて、やっとたどり着いたのだった。
面白いのは、西村で、横浜育ち、里見、中山と美術学校の同級、佐伯のパリ行きに最初から同調したが、資金繰りが間に合わず延期、さらに関東大震災に遭い、結局、佐伯夫妻の1等の船賃千円を、三等の490円に格下げしてもらいやっと同行を果たした。佐伯が避難民のような格好をしていたのも三等船客だったためかもしれない。その晩、6人は、里見が急遽手配したホテル、パンテオン広場のホテル・グランゾンムに泊った。
(つづく)

