フランスと日本人画家 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

工場についての連載に一息入れたついでに、趣味の絵画に触れたいと思います。先回、黒田清輝が東京芸大で、影を黒く塗るな、と教え藤田嗣治の絵をみんなの前で酷評したエピソードを書きました。

黒田清輝はグレー・シュル・ロワン(Grez sur Loing)にしばしば滞在し、「読書(1891年、東京国立博物館蔵)」、「赤髪の少女(1892)」「厨房(1892年、東京芸術大学蔵)」などの代表作を、ここで描いています。


フランスの田舎暮らし-lecture


黒田清輝は旧薩摩藩士の養嗣子として後に爵位を得る家柄に生まれました。18歳でパリに留学、絵画を学び、1893年に帰国し、1896年に新設された東京美術学校の西洋画科の主任となりました。当時日本での最高の美術教育機関の洋画部門の指導者となったのです。

その黒田は、最初から絵を学ぶつもりでパリへ行ったのではなかったのでした。法律を学ぶつもりで行き、パリで絵画に目覚め方針転換したのでした。その理由がおもしろいんです。

パリへ来るまで、黒田は絵など賤しいものと考えていました。「政治社会で名を挙げんことをのみ望み、参議のみが人間なる様な感覚を」持っていました。しかし、パリで西洋の絵画に接し、よくよく考えてみると、絵画といえどもなんら賤しい事はなく、上手に描ける画家になれば大臣にも相当する

「画学というものは天物すなわち山水草木畜獣などを友と師とし、気楽なので50年の一生を愉快に送ることが出来る」。パリで法律を勉強するのを諦め、絵を勉強したいと
養父に書き送っている(1887年=明治20年、4月8日付、父親清綱宛て書簡)。

「今までにもパリで法律を学び法律博士号を獲って帰国した日本人は2・3人居ると聞いているが、絵画を学んだ日本人はひとりも居らず、自分が絵画を一心に学んで一人前の画家になれば、自分のためだけでなく、国家のためになる」と凄いことを書いてます。養父を説得するためとは言え、国家のために絵画を学ぶんだと、使命感さえ打ち出しています。

この時代、絵画を学ぶためにフランスに留学した日本人は、多かれ少なかれ黒田に似た使命感を抱いていました。

東京美術学校の西洋画科の助教授だった岡田三郎助は1897年5月、第一回文部省留学生としてフランス留学を命じられます。黒田が師事したラファエル・コランへの紹介状を持ってコランを訪れ4年半の留学中、実作者として表現技法を学ぶだけでなく美術教育の実際を学び、帰国後東京美術学校教授に任命されました。

美術家としての自己変革、自己確立が、そのまま日本の新しい国家建設につながっており、黒田が19世紀末に築こうとしたコランー黒田ー岡田の系譜によるシステムには、明治国家建設に携わる者の自負が盛り込まれていました。

このような国家意識は、1900年代の前半まで、フランスに留学した日本人画家たちの間に保たれていました。

1900年のパリ万博を契機に、浅井忠、和田英作、そして黒田清輝が渡欧します。

影に黒を使うなと指導した黒田は「紫派」または「南派」、単に「新派」と呼ばれました。これに対し、1900年4月から1902年5月まで、パリ万博を機に文部省から派遣された浅井忠は「旧派」の代表者でした。

浅井忠は和田英作とグレー・シュル・ロワンに1901年10月から翌年3月までの6か月間滞在します。

  (つづく)

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