陶芸家は、発案から完成まで、ほとんどの作業を独りでやる。物造りの喜びは、作者がコンセプトから手作りで成形し模様を描くまで、すべて独りでやるばあいに増幅するだろう。
一方で、流れ作業のベルトコンベアに乗り大量生産の商品を組み立てている労働者を考えてみる。
茶碗や花瓶は装飾品でもあり実用品でもある。
大量生産で出来る自動車も実用品ではあるがデザインによっては若者の胸をときめかす美術品でもあり得る。
共通しているのは「物を作る」労働という過程を経て作られることだ。
自分のイメージどおりの陶器を作った陶芸家は、出来上がった作品を自己の一部と見做して悦に入ることが出来る。プラトンの「饗宴」の中で、アガトンがエロスについて語り、子供を作る喜びを認めたうえで、子供に代わるものとして彫刻など芸術品を造る芸術家には、もっと深い喜びがあると言った、あの喜びを持つことが出来る。
自動車の組み立てラインで働くオペレターは、1分とか長くて90秒とかの短い時間に、4つとか5つとかの部品を組み付ける。最近は1時間とか2時間ごとに小休止があるけれど、それでも、同じ作業を60~120回休まず繰り返す。小休止が終われば、また繰り返し、一日の実働時間が7時間とすれば多くて400回、少なくても300回は同じ作業を繰り返す。
自分の担当部品は全体の数百分の1でしかなく、オレという人間が大きな機械の歯車でしかないことを毎度痛感させられる。そして、自分が作った商品は、1分とか1分半後には、コンベアに運ばれ次の担当者のところへ行ってしまう。オレが作った作品、などとナルシシズムの感情移入を商品に向けて悦に入るヒマなどまったく無いのだ。
めのおは自動車工場の組み立てラインで3年ほど通訳として働いたことがあるのだが、その時に、トレーナーさんとして日本の支援工場から来たベテランのオペレターさんに訊いてみたことがある。
「毎日300回も同じ作業を繰り返して、作った先からモノは消え去ってしまう。虚しいと感じることはないですか?」
すると彼はこう答えたのだ。
「300回繰り返しと言っても、実際は一回ごとに違うんだ。ひとつひとつにタマシイを籠めて作るから、ムナシイなんて感じることはない」
19世紀の工場労働者は、マルクスが「経済学・哲学草稿」(1844年)に書いた、労働過程とその生産は利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本の下に従属し、ものを作る主人であることが失われてゆく状況にあったろうと思う。経済、社会、歴史的には、客体として存在するようになったものを操作する力を主体が失っている状態、いわゆる「疎外 alienation, Entfremdung 」状況に置かれた。
この状況は巨大産業が支配する現代社会ではますます激しいものとなっている。原発事故はその最大の悲劇的状況をわれわれに見せつけている。
労働者の疎外という観点で見れば、ソ連邦での生産体制のもとでも変わりはなかった。労働者は同じように搾取されていた。搾取という言葉が社会主義体制下ではありえないと主張する人には、疎外されていたと言い換えてもよい。
生産至上主義という点で、アメリカとソ連は変わりがなかった。
労働者の疎外という問題を根本的に解決するものではなく、緩和的な折衷的な形ではあるが、20世紀初頭に、ヘンリー・フォードが始めた流れ作業による同じ型の車(T型フォード)の大量生産は、それまで金持ちの乗り物だった自動車を大衆が手の届く消費財と化した。フォードの経営方針は、労働者にできるだけ高い賃金を払い、労働者にも車を購入する購買力を与えようというものだった。
日本式生産方式と、その象徴としての「カイゼン」という運動には、労働の疎外を軽減するため、オペレーター自らの発案、創意工夫を積極的に取り入れ、一人一人が一日の大半を過ごす職場、自分の持ち場の労働環境と作業手順、道具の改善を推奨して、ものを作ることへの積極的参加、オペレーターといえどもモノ作りの主人であり得ることを体得させようという意志が込められている。
(つづく)