マリー・スチュアートがフランスの王妃だった期間は、ほんの1年間だけでした。
なぜなら、フランソワ2世も、すぐに他界してしまったからです。
1560年12月5日、フランソワ2世は、16歳で病死します。
子供ができなかったマリー(メアリー)は翌1561年8月にスコットランドに帰国しました。
その後の彼女には数奇なというか不幸な運命が待ち受けています。
劇の後、舞台下の馬場で、二人の騎士と二人のマドマゼルが馬術を披露してくれました。
馬術の写真と取り混ぜながら、メアリー・スチュアートの運命を簡単に辿ることにします。
メアリーは、再婚相手を探しますが、姑のカトリーヌ・ド・メデイシスとエリザベス1世の反対にあってなかなか決められません。
当時のスコットランドとイングランドには宗教革命が起こって、スコットランドは国教がプロテスタントになっていました。
メアリーはカトリックであり、ローマ法王も、ヘンリー8世の離婚を認めませんでしたから、イングランドの王位継承者はメアリーであり、エリザベス1世ではないと考えていました。
メアリーとエリザベス1世との間の確執が生涯にわたって続きます。
1565年、メアリーはやっとダーンリー卿(ヘンリー・スチュアート)と再婚します。
この結婚にも、カトリーヌ・ド・メデイシスとエリザベス1世は反対でした。
再婚後、メアリーはダーンリー卿が傲慢なエゴイストであり、良い夫ではないと気付き、心はイタリア人の音楽家で秘書のリッチオに惹かれるのですが、リッチオを目の前で惨殺される不幸に遭います。
ダーンリー卿は「王配」といい、メアリーと共治国王の身分でした。二人の間に息子ジェームズが誕生します。後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世)です。
1567年、 エデインバラの教会(現エデインバラ大学の構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見されます。
メアリーは、ついでボスウエル伯と結婚しますが、彼はダーンリー卿殺害に関与したと見做され、カトリック、プロテスタント双方が反対しました。
反ボスウエル派の貴族が軍を起こし、メアリーは反乱軍に投降します。
ロッホリーヴン城に移され、7月26日、メアリーは廃位されます。
1568年5月、脱走したメアリーはエリザベス1世の許に逃れます。
保護を求めながら、メアリーは王位継承者は自分だと主張、エリザベス1世廃位の陰謀に関係します。
1570年のリドルフィ事件
1586年のバビントン事件で、メアリーが関与した証拠が提示され、有罪、死刑を言い渡されます。
エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋ったと言われていますが、1587年2月8日、フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑されました。
スペインのフィリペ2世は、カトリックですから、ずっとメアリーを支持していて、メアリー処刑を知ると、無敵艦隊をイングランドに派遣し、アルマダの海戦(1588)が起こりました。
マリー・スチュアートの生涯は、文学やオペラに取り上げられていますね。
ドイツ浪漫派のフリードリッヒ・シラー、シュテファン・ツヴァイク、アレクサンドル・デュマなど。音楽ではドニゼッティがシラーの戯曲をオペラにしています。ロベルト・シューマンはメアリー自身が書いたフランス語の詩を独訳したものに作曲し「メアリ・スチュアートによる5つの詩」作品135という題の歌曲集を残しています。
(つづく)









