パスカルが専門のY教授が受け持った。フランスの17世紀の数学者、今のコンピューターのはしり、手動計算機を発明し、一方で「パンセ」を書いたモラリスト・パスカルを研究するだけあって機械にも強いのがY教授なのかもしれない。
パスカルも虫歯に悩まされた。渉と大違いなのは、虫歯の痛みを忘れるためにサイクロイド曲線の難解な方程式を解いてしまったというのがパスカルの天才たる所以だ。
Y教授は、大柄な体格に似あわず神経質な体質の持ち主だった。授業の初めに教室のドアに鍵を掛けて遅刻した生徒は締め出してしまう。
渉が、その朝、ラボのドアのノブに手を掛けると、鍵がかけられていた。手持無沙汰な時間が出来たので、あてもなく廊下を歩いてゆくと、窓際に凭れて独り外を眺めている青年が眼に止まった。
お互い教室を締め出された苦笑いを交わした後、空いた時間をどっかで過ごそうと並んで歩き始めた。同じクラスで顔は知っていたが、その時初めて名乗りあったと思う。彼の名は「畑」といった。
春のうららかな日和だったので校舎から出て体育館脇の土手の桜の木の下に並んで腰を下した。桜の花びらが舞っていた。
話を交わすうちに畑がフォークソングが好きで自分で作曲し歌も歌うことがわかった。ボブ・デイランの「風に吹かれて」はいいという。こんど聞かせるから遊びに来ないかという。
渉は入学するとすぐに、他学部の「フランス語同好会」に入会し、いきなり中級会話の録音テープを貰い毎日耳から覚えてると話した。明日にでもそのテープを持って遊びに行くからコピーするといい。効果はバツグンだぜ。Yの授業なんてちゃんちゃら可笑しくって。ドアに鍵かけるなんて神経過敏だよな。このテープで聴き取りと発音勉強すれば、Yの授業なんざ半分サボっても平気さ。
それから畑は最近読んだ本で良いと思った本を奨めた。小田実のギリシャを舞台にした小説だった。小田実は、その頃、ベトナム戦争に反対して市民運動をやっていた。こんど集会があるから一緒に行こうと畑が誘った。
日比谷公園の脇でその集会は持たれた。小田実は開口健と並んで宣伝カーの屋根に上り、交代で話をした。アジ演説といったものではなく、普通の語り口で、ベトナムの現状を淡々と訴えた。
次の日曜に渉は畑の家に遊びに行った。西武線の下井草という駅の近くで、そこには二人が入った大学のプールがあった。畑は高校時代水泳部で活躍し、卒業してからは母校の水泳部のコーチをしていた。
畑の部屋は玄関わきの4畳半で、アンプとスピーカーの他に、ゴタゴタと物がいっぱい置いてあった。ギターがあり、楽譜が散らばっていた。畑は胡坐をかきギターを抱えるとハーモニカを支える金具を首から掛け、ギターを弾きながら歌い、時おりハーモニカを吹いた。
ダミ声で歌う畑の歌は、正直、渉はいいとは思わなかった。ただ、畑も浪人生活の苦汁と孤独を味わったことが知れたので渉は気心が通じるように思った。
畑の部屋の小さな本棚には、ストリンドベルグとか北欧の作家や思想家の本が数冊並んでいた。畑は、これは親父の本だが持って行けと一冊を貸してくれた。
小田実のギリシャにも憧れながら、畑は北欧にも共感を寄せていた。後に大学を卒業してすぐ畑は北欧に旅立った。帰ってきてから渉に旅の詳細を語り、こんどお前が行くときはこのコースを取って行けと、行く先々の宿泊場所や交通機関を教えてくれた。
渉がシベリア経由でヨーロッパへ旅立つのは、それから8年も後のことになるが、横浜の桟橋に畑は見送りに来てくれたし、畑の教えてくれた通りのコースを取って渉は、ノルウエーのナルヴィックまで行ったのだった。途中、日本人の旅行者と毎日顔を合わせたが、ただ一日、日本人と出会わなかったのは、ナルヴィックからバスに乗り、冷たい鉄色の水のフィヨルドを小舟で渡り、オスロへ下る畑が教えたコースを取った時だけだった。
(つづく)

