サン・シモンについて | 雷神トールのブログ

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みなさま、明けましておめでとうございます。
今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。


フランス大革命後の王政復古の時代、1830年にフランス軍がアルジェを陥落させ、オスマントルコに代わりその後130年に渡る植民地支配を始める、その前座を書いたまま中断していました。

偶然見つけたフランス5チャンネルの「アブデル・カデル」についての映像を、このブログに貼り付けたところ、福田いくよ様から「サンシモン主義とユニタリアニズム」の関係についてコメントを頂き、この時代の産業の発展と社会思想、さらには植民地主義との関連に目が開かれた思いがしたのでした。

福田様ご指摘の「女性サン・シモン主義の服装と女性解放の思想」について、めのおの知識は今なおまったくの進展を見ていないのですが、一つだけ、コメ返しの中で誤ったことを書いたことに気づき、ここで訂正させて頂きます。

それは、実証主義哲学者で「社会学の創始者」、オーギュスト・コントの秘書にサンシモンがなったと書いたことですが、正しくは逆で、サンシモンの私設秘書として、ポリテクニックの教授職を罷免させられたオーギュスト・コントが召し抱えられたというのが正しい関係です。お詫びして訂正させて頂きます。

サン・シモンはコントの協力を得て、彼の「科学信仰」に基づく哲学を構築し、またコントの方もサンシモンの秘書として協力するうち、後の実証主義哲学の主要な考え「三段階の法則」の萌芽を抱いたという関係にあったようです。

お正月早々、なにやら小難しそうな話で申し訳ありませんが、良く考えてみると、めのお自身にとっても、また現代社会を考える上でも、サンシモンとオーギュスト・コントを抜きにはできない。大急ぎでもいいから素通りにしちゃいけないと思い直したわけであります。

で、今日と明日だけでも、サンシモンとコントについて書いておきます。


saintsimon


まず、サン・シモンですが、フーリエと並んで、「空想的社会主義者」とのちにマルクスとエンゲルスが呼んだことは皆さんご存知と思います。しかし批判的にではありますが、マルクスに多大な影響を与えたのが、サンシモンとオーギュスト・コントですね。

「最後のジャンテイ・オンムにして最初の社会主義者」これが歴史家がサンシモンに付けた渾名です。ジャンテイ・オンムはモリエールの「ブルジョワ・ジャンテイ・オンム」という劇にありますように日本では鈴木力衛さんが「町人貴族」と訳されておりますが。まあ英語のジェントルマンと大差はなかろうとお思いください。「気の良い」「お人善しの」「善良な」といった形容詞が似合う貴族ほどのお金持ちの殿方のことですね。

シャルルマーニュ(カール大帝)の血を引くフランスでも高位の貴族、ルイ14世の時代に「メモワール(回想録)」を書いたサンシモン公爵の従弟にあたるのがクロード・アンリ・ド・ルーヴロワ、サンシモン伯爵であります。(1760年生まれ~1825年没)

家庭教師からダランベール、ルッソーなど百科全書派の影響を受け、16歳(17の説もあり)の時、アメリカ独立戦争に、ラファイエット軍に加わって参戦します。このとき、アメリカの産業階級の勃興に感銘を受け、パナマ運河建設の構想を持ったといいます。

フランス大革命の間、教会の財物を売り払って巨額の利益を得たといわれます。そのためかは調べてませんが、ロベスピエールの恐怖政治が始まると逮捕されリュクサンブール宮殿(今の下院)に幽閉されます。1794年に釈放され、教会の財産を売り払って得たお金でパリのエコール・ポリテクニック(パンテオンがあるサント・ジュヌヴィエーヴの丘の中腹にあった。歴代大統領を生んだフランスのエリート養成の学校=グランゼコル。今は郊外に移転)の前にアパートを買って住み、ポリテクで数学の授業を受講。

ついで医学部脇に引っ越し、こんどは生物学、人相学などを受講。ニュートンを賛美し、科学の原理を統合して、科学のコモンセンスの確立を望み、一種の新興宗教に近い科学信仰を生み、産業による人間性(ユマニテ)の進歩を称賛する哲学を構築します。そうして書かれたのが「ジュネーヴ書簡」(ジュネーヴ市民とその同時代人への手紙、1803年)でした。

オーギュスト・コントを秘書に雇うのは1817年になってからです。コントはポリテクニックを罷免され失業中だったので、渡りに船と、サンシモン伯爵の下に走ったようです。ただ二人は後に諍いをして別れたと日本語版ウイキにはあります。

この二人にとって、フランス大革命によって混乱した社会をどう再編成し安定しかつ発展可能な社会にするかが基本的な問題意識だったようです。

1819年には「政治」と題した著作を、1819~1820年には「組織する人(オーガナイザー)」というタイトルの本を出版しています。

この著作にはオーギュスト・コントも関わり、後のコントの「三段階の法則」の原初的な考えが述べられています。つまり「神学(想像的)」の封建制社会から、「実証」を重んじる産業社会を対比し、「過去の安定的秩序と未来の革新的な進歩」のふたつの原理の争いにより人間の社会は「軍事的~法律的~産業的」へ単線的に移行するという考えを打ち立てたのでした。

サンシモンは富の生産が社会の重要な任務であり、産業階級は貴族と僧侶より重要な要素であると考えていました。

1819年には、次のような言葉を公にして告訴されています。
「50人の物理学者、科学者、技師、勤労者、船主、商人、職工、の不慮の死は取り返しがつかないが、50人の王子、廷臣、大臣、高位の僧侶、の空位は容易に満たすことができる」

この言葉から見るようにサンシモンは技術者を重視していたのです。「テクノクラートの予言者」とも呼ばれています。

しかし、高位の貴族の出ということもあって、サンシモンには資本家と労働者の対立という考えは終生持ちませんでした。「資本家は労働者と等しく産業階級である」。1810年に英国ではラッダイト運動が起き、サンシモンも着目はしますが、「資本の所有者は、その精神的優位によって、無産者に対して権力を獲得した」という見解を持ち続けました。

「労働者は自ら自由を獲得すべき存在ではなく、使用者によって保護されるべき存在」と見做していました。

1819年以降は、キリスト教の道徳を産業社会に適用する方策を夢想し、「新しいキリスト教は、礼拝や形式から脱却して、人間は互いに兄弟として行動し、富者は貧者を救済すべきである」とする人道主義に傾いてゆきました。

マルクスとエンゲルスはパリで「共産党宣言」を発表するわけですが、その際サンシモンの思想を「空想的社会主義」と批判し、自らの「科学的社会主義」と区別したわけです。

 (つづく)



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