「我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬(ようけん=タカとイヌ)となるか、或は東洋王道の干城(かんじょう=干は楯の意。楯となり城となって守護する人)となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。(「大アジア主義」1924年12月28日神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体におこなった講演――「孫文選集」1966)
玄洋社の頭山満は孫文と親しく孫文が信頼を寄せる人であったが、この演説の直前に会い、孫文は大隈内閣が突き付けた「対支二十一箇条」を撤廃してくれるよう求めた。頭山は「日本国民の大多数は、それに応じないだろう」と答え、孫文を失望させた。
「嘗て、満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸いにして我が日本が相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車(しんしほしゃ)関係にある貴国保全の為之を防止するを得たのである。依って同地方に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何ら他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還付するべきであるが、目下オイソレと還付の要求に応ずるが如きは、わが国民の大多数が承知しないであろう」と。
孫文の演説は、日本国民の意志を代表するような頭山の考えに対する反論であり警告であった。「大アジア主義」と題されたこの演説は、実は大アジア主義という名で粉飾した日本への失望と日本のアジア主義が帝国主義へと変貌してゆく危機感、絶望が込められていたということを見逃してはならない。
玄洋社のメンバーたちは朝鮮の民衆、農民たちと共に戦い、日本と朝鮮との対等な立場での「合邦」を望んでいた。日本政府が、朝鮮の主権を奪い、統合したことに対し、玄洋社の人たちは「裏切られた」と感じた。
言い代えるなら、その時期まで、玄洋社の人々は「アジア主義」を「アジア人民の連帯」という風に素朴に捕えていた。しかし、ある時期から、自由民権運動を棄て国権主義にのっとり富国強兵に方針転換することを明確に打ち出してゆく。
1917年刊の「玄洋社社史」はこう書く。
「玄洋社が民権伸張を唱えたるもの、すなわちこれによって国家の発展を希(ねが)うところありたるが故なり。すでに大憲発せられ、国会開かれるの後、民権党、国家の四囲強敵に包まれ、外侮ようやく大きを覚らず、いたずらに口舌の雄を弄ぶあり。すなわち玄洋社民権主義を棄つること敝覆(へいふく)のごとくし、もって国権主義に拠って軍備を整え、兵を強くし、外敵に当たらん事を望みたりき。」
(現代語訳)「当初自由民権を唱え国会開設を要求したのは、つまるところ国家の発展を願うところがあったからである。いまや憲法も発布され国会も開設されたにつき、民権党は国家が四方強敵に包まれ、外国からの侮辱的な扱いが大きくなっているのを覚らず、いたずらに口舌の雄を弄んでいる。つまり玄洋社が民権主義を棄てるのは破れてぼろぼろになった履物を棄てるのと同じだ。国権主義に拠って軍備を整え、兵を強くし、外からの敵に当たることを望んだのだ。」
めのおは、もっともっと「アジア主義」についての調べたいのですが、外国に居住して資料も無い限界を感じ、ここでいったん打ち切り、むしろ、フランスに暮らしている利点を活かし、フランスの19世紀以降の植民地政策、いつかはやらねばと思っていた課題、アルジェリアの支配がどのように行われていったのかを、これから少しづつ調べて書いてゆきたいと思います。
(アジア主義についての連載おわり)