学問のすすめ 初篇 その④ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

この段では「一国民たることの分限」と、前段で「自由」との対比で使った「分限」という語をもう一度取り上げ意見を主張することの重要性を説いています。


フランスの田舎暮らし-がく4

幕府の「御用」と書かれた馬が通れば、石や瓦を積んでいても大切な荷を運ぶかのように往来の人は道を避けたものだが、こんな見苦しい風習を世の中の人は嫌っていながらも昔からの仕来たりとして続けてきた。これは法律が貴いのでも、品物が貴いのでもなく、ただ、政府が威光を張り、人を脅して人の自由を妨げる卑怯なやり方で、内容が無い虚威というものだ。

幕府支配が終焉した今日では、こんな悪しき制度風俗は無くなった筈だから
安心して、政府に不満を抱く事があればこれを隠して陰で為政者を恨む必要は無く、「その道を求めその筋に由って」静かに訴え遠慮なく議論すべきだ。

ここでまた、福翁は激しいことを言います。

天理人情に叶うことなのだから、一命を抛(なげうっ)てでも争うべきであり、そうすることが即ち「一国の人民たる者の分限というものなのだ」。

分限という語は普通「身分、身のほど、分際」と言った意味で、次にぶげん者などに使われる財産、財力を持つ者、金持ちの意味に使われますが、福翁はここではちょっと違った意味で使っているように思われます。

ここの「分限」という語は「それ相応の能力、力」といった意味で使っているようです。一国の人民たるものの「権利」、いや、むしろ「義務」の意味に取れるように使っていると感じます。「一命を抛(なげうっ)てでも争うべき」それほど大切な「国民としてやるべき」ことなのだと国民の自覚を促しています

「こんな悪しき制度風俗は無くなった筈だから」と福翁は書きますが、福翁にとっての悪しき制度風習を武家社会の風習一般と大きく括れば、福翁が「学問のすすめ」を書き続けていた時代、すなわち、1874(明治7)年には江藤新平の「佐賀の乱」が、さらに1876(明治9)年には熊本で大田黒伴雄を首領とする「神風連の乱」が、そして1877(明治10)年には前原一誠の「萩の乱」が起こり、ついに西郷隆盛の「西南戦争」へと続きます。

この一連の事件は、不平士族の反乱と歴史では括られていますが、西洋化に対する伝統からの異議申し立て、新政府の藩閥政治への不満が新政府を構成する主要メンバーだった薩長の出身者の中から噴出しました

例えば「神風連」ですが、政府の西洋化政策にかつての侍達は不満を抱き、「西洋の影響を阻止する」だけでなく洋服の着用であれ、西暦の採用であれ、西洋の影響をこの世から跡形なく消し去る覚悟を持っていた」(ドナルド・キーン氏著「明治天皇」上)

今から見ると悲しいほど滑稽に思えますが、彼らは電気を嫌うあまり電線の下をくぐらねばならない場合は白い扇をかざして通った。近代兵器の使用を拒否したため、10月24日に「神風連」の党員200名が決起しましたが、ライフルと大砲で装備した政府軍に日本刀で立ち向かい自滅したのでした。

そういう時代の中で「学問の……」を書いた
福翁を想像してみる必要があると思います。福翁は、江藤新平が「佐賀の乱」を起こした1874(明治7)年には、本格的な著書「文明論の概略」を上梓します。「学問のすすめ」を書き連ねながら、これでは足りないと感じるところがあったのでしょう。無論、福沢の立場は、西洋社会が持つ文明の高みを日本人自身が身につけねばならないと、後に福沢が唱えたとされる「脱亜入欧」をいかに論として構築するかに、すでに心を傾けていたのでした。

  (つづく)

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