1789 年の革命と人権宣言 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

今年もまた、カトルズ・ジュイエ(7月14日)の祝日がやってくる。ご存知、1789年7月14日のパリ民衆によるバスチーユ要塞陥落を記念してのフランスの祝日だ。

革命記念日とも建国記念日とも呼ぶことができる。恒例のパレードが凱旋門からコンコルド広場までシャンゼリゼをいっぱいに使って繰り広げられる。

なんことはない軍事パレードじゃないかとけなすことも出来る。毎回同じなので、もうテレビでも観る気がしないが、パレードに出てくるドラゴンと呼ばれる近衛騎馬兵の長い尾がついたヘルメットと胴飾りの行進は華々しくて好きだ。


フランスの田舎暮らし-このえ1


対照的に、外人部隊の、スローペースで歩を運び、肩に斧など担いだ、相当に田舎くさい集団も好きだ。

こういうところは、旧ソ連の赤い広場での、大陸間弾道弾など仰々しい軍事パレードと幾分かは違い、ショー的華やかさがあっていい。

フランス大革命の口火を切ったのは、日本の明治維新と同じ、下層の貴族(ミラボー)や庶民出身の知識人(ロベスピエールは弁護士)だった。

国家の財政が破綻したうえに前年の1788年には全土を大凶作が襲った。

それまでのフランスの立法、裁判権は高等法院に与えられていたが、国家を揺るがす大事件が持ち上がった時には三部会が招集された。

1788年には国王政府が全国三部会の招集を布告した。

翌89年5月5日、ヴェルサイユで全国三部会が開幕。そして6月17日には第三身分の代議員が国民議会( Convention )の設立を宣言してしまう。

その3日後、国民議会は球戯場(ジュ・ド・ポーム)に集まり、憲法が制定されるまで解散しないと宣言する。これが世に有名な「球戯場の誓い」というもの。

3日後、国王ルイ16世は議会に親臨し、国民議会の解散を命じる。

むろん国民議会は断固反対し、国王が折れて、第一第二身分(貴族と聖職者)の代議員に国民議会への合流を勧告する。

7月7日、国民議会は憲法制定国民議会と名称を変更。

ところが妥協したかに見えた国王は同日議会へ軍隊を差し向け、これを押しつぶそうとする。

7月14日、ジャーナリストのデムーランはパリで演説(12日、市民諸君!武器をとれ!といったようなアジ演説だったろう)を打ち、興奮したパリ市民は武器貯蔵庫だったアンヴァリッド(廃兵院、現在はナポレオンの棺が安置されている)を襲い武器を奪って、当時政治犯の監獄だったバスチーユ要塞を襲撃して陥落させた。

フランス人民が、その後も留まる所を知らない
社会的大変革へ向かい立ちあがった日を記念して、今日、フランスで最も盛大なお祭り、カトルズ・ジュイエは連綿と続けられている。(以上は、佐藤賢一著、小説フランス革命の巻末に付けられている年表を参考に作った簡単なクロニクルです

同年8月26日、議会は「人間と市民の権利に関する宣言」(いわゆる人権宣言)を採択。

明日からのブログは、この人権宣言により、市民から隔離されゲットーに居住を余儀なくされていたユダヤ人が本当に解放されたのか? 彼らにとっての解放とはなんだったのかなどについてほんの少し、調べたことをご報告したいと思います。


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