前回書いた「デジャ・ヴュ」は déjà vu のことで 「既に見た」と voir (見る)という動詞の過去分詞 vu を使う。過去世の記憶が「この光景はいつか見たことがある」と既視感を持たせると、輪廻転生の証拠のように用いられ、東洋に広く伝わる生命観と関係があるため、最近の若い人のブログ記事でもたびたびお目にかかる。
第一次大戦中スイスに亡命して反戦運動を続け、東洋思想に興味を持ってラマ・クリシュナなどをヨーロッパに紹介したロマンロラン。さらにシュールレアリズムの理論家アンドレ・ブルトンなどが最初に使い、最近では猫も杓子もというほど一般化した。残念なことに日本では「デジャ・ヴ」と書く人が多い。「もう、あなた」となにか早漏の男性に失望の溜息を吐くマダムの言葉ととれかねない。あなた( ヴ= vous )だけはやめてほしい。先日読んだ小説の「デジャ・ビュ」の方がまだましだ。
VとBとは違う音だと加藤周一は機会あるごとに言っていた。講演でも「ヴ」の音を下唇を噛んで発音したのを思い出す。
これだけ英語ほか外国語と接する機会が多い現代日本で、いまだにvの音を「ヴ」と書くと「気取った感じがする」という。つい先日10日間のフランス滞在を終えて空港へ向かう車の中で幼馴染のH さんの娘さんがそう教えてくれた。民族意識とは怖ろしいもんだと思い、返す言葉がなかった。
ヴェトナムはベトナム、ヴェニスはベニスと昔は書いていた。古い話だが、学生時代、大学周辺の古本屋を覗くとゲーテを「ヰ」に濁点をふった字で表記してあり仰天したのを覚えている。「ギヨーテ」と読んでいたらしい。その方がいくぶん原語に近かったのかもしれない。
なるほどベルサイユをヴェルサイユと書くとちょっと気取った感じがするかもしれない。なにしろベルバラが大流行してすっかり定着してしまったんだから。いまさら「ヴェルバラ」とは書けないってわけか。しかし、佐藤賢一はさすがにヴェルサイユと書いている。
フランス語や英語の単語をカタカナ表記したら「外来語」と編集者に言われぎょっとした。こっちには外来語なんて意識はこれっぽっちもなかった。
jupon が襦袢になったりズボンになったりした昔や、カステラやテンプラを「外来語」と呼んだ昔はいざしらず、今どき欧米起源の単語を外来語と呼べるだろうか? インターネットやパソコンの世界は外来語で溢れかえっている。
版画の技術用語の「ビュラン」やレンブラントの「クレール・オプスキュール」は外来語にはなっていない。後者はイタリア語の「キアロスクーロ」が大辞林に載っている。こういう言葉には文中に説明をつけてある。
ラムネはリモナードだぞ、サイダーはシードルだなんて語源探しをしても、外来語として定着したものは変えようがないと言われればそれまで。悪あがきはしないつもり。でもね、「ルイ・ヴィトン」となると固有名詞はそのうち変わるんじゃないの? 変わって欲しいし、変えなきゃいけないと思う。いつかはだれかが先陣を切るべきだろう。
しかし、まあ外国語はどこも自国流に発音するので日本だけ直せと眼くじら立てる必要はないかもしれない。ブルゴーニュはバーガンデイーだしオルレアンはオールリーンズになっている。フランス人となればもっとひどく「花子さん」は「アナコさん」だし日立は「イタチ」にされてしまうんだから。
言葉は生き物だから時代とともに変わってゆくだろう。昔バカンスと書いたのも今は「ヴァカンス」に馴染みつつあるんじゃないか?
カフェをカフェーと書いたら「大正時代」だと言われた。なるほど現代では日本人も「カフェ」と言う。そんなら、フランス人の発音どおりボーザールは「ボザール」だしグランゼコールは「グランゼコル」、ブールバールは「ブルヴァール」とすべきじゃないかと意見具申したら、そう書いても通じないことはないという返事が返ってきた。
いったい言葉には何が正しく何が間違いという定式はない。定着してるかいないか? 違和感なく受け止められるか否か? 万事、感覚が支配する世界ではないか? 誰かが新しい表記を始めてそれが流行し定着するだけの話じゃないか。「言葉は生き物」だから無理に固定化する方がおかしいのだ。権力とか権威を持ち出さないことには固定化できない生き物なんだと思う。
フランスにはアカデミー・フランセーズがあり新しい単語をラルース辞典に載せるか否かを議論し載れば晴れてフランス語と認知されたことになる。綴りも辞書が正誤の判断の決め手になる。日本語の、常用漢字表はひとつの「目安」であり強制力はない(と、わざわざ常用漢字の前書きに断ってあるのに、なぜ小説の編集者が進んで常用漢字だけに制限するのか?)。広辞苑や大辞林は一応の権威たり得るが辞書に載ってない言葉は使ってはならないとするのは行きすぎた権威主義ないし怠慢な保守主義だと思う。
次回は漢字の使い方について書こうと思います。