「ラスコーの夢」 | 雷神トールのブログ

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今回ハリー・メイさんに持って来て頂いた沢山の本の中から、読みやすい小説「時を超えた記憶 - 副題ラスコーの夢」(ジーン・フェリス作、若林千鶴訳、宇野亜喜良画、金の星社、ときめき文学館)を読んだ。


フランスの田舎暮らし-記憶


ロサンジェルスに住む、モリーとハンナは、
 外見はそっくりだが、内面はまったくちがう双子の姉妹。物静かで、思慮深く、慎重で、ずっと年上に見えるモリーは、「代数であろうと対人関係であろうとあらゆる問題解決の才能とユーモアのセンスを持ち合わせている」。化学者の母親の長所を受け継いだため母親はモリーをより愛している。

一方のハンナは「感情が激しく、衝動的で、落ち着きがなく、大声でゲラゲラ笑い、モリーが得意とする分野に次つぎと問題をこしらえるばかりだった。」人類学者で気持ちのおおらかな父親とモリーは気が合っている。

大晦日のパーテイーの後、ボーイフレンドに別々の車で家まで送って貰うが、モリーが乗った車に他の車がぶつかってモリーは死んでしまう。

モリーを失った喪失感が消えないまま
親子三人は、父親の長年の夢だったフランスのドルドーニュへ洞窟画を見に行く。

南フランスの夏の田舎の描写がメルヘン的に(めのおから見ればきれいすぎに)描かれている。少女ハンナの一人称独白体で書かれてるのが比喩や感覚や心理の表現に思わぬ面白みを生んでいる。

ハンナは田舎を散歩中にジャッグルの練習をしているサーカスの若い道化師ステファンと出会う。ステファンはロマ(かつてはジプシーと呼ばれた流浪の民)の子で、様々な芸やマジックをこなす。ステファンに意気投合してしまうハンナは芸術家タイプの娘ということか。

一定の住所を持たないロマに対する警戒心を化学教師の母親は強く持っている。ステファンに誘われるままにハンナは毎晩のようにサーカスの最前席に座り、道化のステファンの相方になって
花束のマジックや、子ブタのフィフィの運ぶサテンのハートを投げ返したり、象のバベットの背中に乗ったりして観客を湧かせる。ここのサーカスの描写は秀逸だ。

動物、とくに子ブタのフィフィとの交流がとても良く書かれていて共感を呼ぶ。ハンナと動物との交感が意識下の記憶を呼び覚まし、亡くなった双子の妹のモリーへの思いで毎晩のように夢にうなされていたハンナはラスコーの洞窟画を見た晩、洞窟ライオンに襲われる夢を見、さらに先史時代の絵描きの少女となって鳥やトナカイやマンモスを描く夢を見る。


フランスの田舎暮らし-ラスコー


「どうしたんだい?」
ステファンが聞いた。
「たった今、先史時代の幻覚みたいなものを見たの。……ラスコーを見てから、ひどい興奮状態になっているような気がするんだけど?」
「きみは、見てるんだよ」ステファンはこともなげに言った。「予知の力でね。」
「まあ、そんなこといわないで。こわくなるわ。」
「どうして? ぼくらみんな、積みかさねられた経験の産物じゃないかい? そういった能力が、前世での経験からきていると考えることは、難しくないよ。」
太陽の下にいながら、寒かった。
「輪廻を信じてるかどうか、わからないの。すごく無理があるような、気がするもの。」
「信じることが? 多くの宗教は、信じてるよ。それから宗教なんて信じていない人間の多くも、輪廻を信じてる。モーツアルトのことなんて、どうやって説明する? 彼は五歳でメヌエットを作曲しただろう? …(中略)…デジャ・ビュの感覚は、きみならどう説明する?」

「心理学者のカール・ユングは、集合的無意識を信じてるよ。」

まあ、この辺のくだりがハンナが夢の中で、
 氷河期の少女アン・ネイとなって洞窟画を描くことの理論的根拠となってるわけだが、そういった本質的なことより、漢字とカナ表記で編集者とひともめしているめのおには「訊く」を「聞く」と書いてることとか、デジャ・「ヴュ」じゃなく「ビュ」と表記してるとこなど、ああ、またか。「デジャ・ヴ」じゃなくてまだ良かったなど余計な方へ注意が向いてしまった。これについては、また書きます。

サーカス小屋は畳まれ、
ステファンヌは去ってしまい、はかない恋も終わるのだが、芸術家として絵に情熱を注ぐ決意でもするのかと期待したハンナは、、自分の長所を受け継いだモリーばかり愛していた母親が、反省してハンナと折り合いを付け、ふたりが歩み寄るメロドラマで小説は終わる。

文中ロマの諺がローマ字で出てきたりして、ヒンデイー語と似ているロマの起源を彷彿させたりとなかなか手が込んだ作品。漢字には全部振り仮名がついて少年少女向けの小説らしいのだが、大人も楽しめ、読みやすく、深みもある小説と言えて、なかなか興味深かった。



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