連載小説 「異土に焦がれて」 84 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

                        

 アンナの伯父さんのラウルは戦時中から抵抗文学など地下に潜って運動を続ける文学者

の書籍を非合法に出版した人であり、戦後すぐに前衛的な文学者の作品をつぎつぎと出版

した。ラウルはそうした出版社を創設した人だったし、従兄弟には有名な映画俳優がいた。

結局アンナの頼みでモジリアニのデッサンはラウルが購入することになり、伯父さんの出版

社の社長室の壁に飾られることになった。

 啓は、藤田の乞食の絵が藤田が最後に暮らした家に飾られるのであれば、それで満足

だった。それなら、あの絵が本来の所有者の許へ返ったと言う事が出来るからだ。

 自由になった啓は三週間ぶりに下宿へ帰った。下宿は九階にありエレベーターが利用で

きない昔の女中部屋だったが、シャワーがあり、温水が出るし、ガスレンジもある。ポワシー

の拘置所に比べ、我が家の安心感がある。オペラ通りの物置小屋と比べれば格段の住み

心地だ。

 啓は時々ルルーの小屋を覗くようになった。二週間に一回はシャワーを浴びて貰いに下宿

に招待した。ルルーが住所不定のために職が見つからないと分かり、その気があるなら下

宿の住所を使って良いというと、ルルーは大家に頼んで居住証明を書いてもらい、身綺麗に

したうえで警察へ行き身分証明書に啓と同じ下宿の住所を書いてもらった。それから一ヵ月

後にルルーは郊外の倉庫に就職が決まった。

 アンナの引っ越しと結婚祝に、アトリエの仲間が集まり質素なパーティーを開いた。

 啓は『アポロンの夢』の版画を額装してアンナに贈った。

「いい連れ合いを持って幸せだよアンナは」

ダニエルは陽気な声を挙げ、アンナに頬づけのキスをしながら言った。

「あたしの分まで幸せになるんだよ」

 アンナは、その月のうちに両親とともにフランスの南のドルドーニュに引っ越した。アンナ

の恋人は陶芸家だった。陶芸なら田舎の方が仕事がしやすい。二人は家族と一緒に移住し

そこで結婚式を挙げる。田舎の山の中に陶芸用の窯とアトリエがあり、アンナはアトリエの

壁に啓が作ったエッチング『アポロンの夢』を飾り、毎日絵を描きながら静かに暮らすことだ

ろう。

 啓はダニエルのアトリエにいつかまた戻って来たいと思ってはいたが、アンナの居ないア

トリエは啓には抜け殻のように寂しく感じられた。

「あたしからもラウルに頼んどいたわ」

 ダニエルは啓がフレスコ画の修復チームに入れるよう力添えしてくれたと言った。

「いろいろお世話になりました。あんまり、良い生徒じゃなかったけど、ダニエルに教えて頂

いたことは絶対に忘れません。いまでも、僕のミスで先生の原版を三枚も駄目にしてしまっ

たことを申し訳なく思っています。藤田の絵で償いにしようと思ったんだけど」

「アジメが拘置所から出られただけでいいのよ。あたしの版画は、幸い三枚とも試し刷りが

してあったから、それをもとに、もういちど作り直すよ。アンナもアジメの誠実さを見込んでフ

レスコの修復を勧めたんだから、辛いことがあっても我慢してやってね。確かにアジメにはフ

レスコの方が向いてる気があたしもするよ。フレスコは建物があるかぎり何百年も残るから

ね」

「それから、アンナにダニエルの面倒を見てって頼まれたことがあるんです。腐食液は一人

じゃ替えられないからって」

「それもアンナから聞いたわ。最近、若いフランス人がアトリエに入ったから、彼に頼んだの

よ。やってくれるって言ってるから、安心して、新しい仕事に打ち込みなさい」

「ああ、ありがとう。ご恩は決して忘れません」

「ご恩だなんて。時々はパリに遊びに来るんだろ。アンナもアジメはこれからは田舎が職場

だって言ってたけど。パリへ来たら、必ずここへ顔出すんだよ」

「もちろんです。一人前の修復士になったらまた版画をやりにここに戻りたいです」

「それはいい。フレスコと版画は対立しない。補い合うもんだから」

 そう言うと、ダニエルは短い腕を差し出し、啓の手を握った。その手は、最初に出会った時

と変わらず、分厚く温かい手だった。

 経綸大学の理事長は、手紙で、例の『名誉博士号』の件は無かったことにしてくれと知ら

せて来た。やはり政治家のNがあちこちで、「わしの口利きのおかげで、あの若造が名誉博

士号をもらうんじゃ」と吹聴を止めず、このままでは大学の評判を極端に貶める結果になる

ので、取りやめる決定をしたということだった。


    (つづく)


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