誘われて啓は地階の喫茶室へ降り、青山と向き合ってテーブルに腰を落ち着けた。
「私はね。いつかパリを足場に大きな商売をしたいんですよ。その折はあなたにもお手伝いをお願
いしようと考えてます。……ところで、ロロザですが、あの男はなかなかやり手です。アルゼンチ
ンの出身だが、パリの要人、社交界、政界、財界、文化人と幅広い人脈を持っている。ああいう男
と昵懇になっておくと将来いろんなことで得をしますよ。彼から何か仕事が生まれそうな気がす
る。私が長年培ったカンが言うんです。そういう臭いがします。今後、気をつけていて、もし何かロ
ロザから出てきたら、迷わず私に第一報を送ってください。お願いします。何かの形で必ずお礼を
させてもらいますから」
「たとえば、具体的に、どんなことでしょう?」
「そう……。たとえば、名の通ってる画家の、今まで知られてなかった絵が出てきたとか……。行
方不明だった傑作をロロザが手に入れたとか……。そういったことです」
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「コーヒーでも飲まないか?」
ロロザは啓の座席の脇の通路に立ち、啓を見降ろして声を掛けた。連れのドイツ女性はグリー
ン車の座席で昼寝でもしているらしかった。
新幹線は三島のあたりを走っている。食堂車は空いていて数人の人影しかなかった。テーブル
を挟み向き合って腰を降ろした。
「東京の風景ってのはなんとも味気のないもんだな。ずっと家と工場ばっかりだ」
新幹線の窓外の景色はヨーロッパと比べると美観は相当に落ちる。そう言いたげだった。
「もうじき富士山の横を通りますよ」
「フジヤマ・ゲイシャは卒業だ。日本は都市の美観は最低だけど、優れた前衛画家がいる。それ
だけは認めるよ。ほら、昨日会ったあのTという画家。彼はいい仕事をする」
銀座で訪ねた画廊で店の主人と共に談笑に加わった青年画家をロロザは思い出したのだ。
「色彩が鮮やか。フォルムが単純で明快だ」
沈黙した後、ロロザが改まったように話しだした。
「画商って商売は、ぺらぺらと不用意なお喋りは禁物なんだ。とくに、お客さんのプライバシーに
関することは絶対に口外しちゃいけない。このことは肝に命じておいてほしい。お客さんの信用を
失うようなことがあっては画商は務まらない」
そう前置きしておきながら、ロロザが啓にした話は、まぎれもなくお客さんの秘密にかかわるこ
とだった。
「あすは大学に行くんだ……。こんどの旅の目的はこのためだよ。この時期、日本の私立大学に
は現金でしこたま金が入る。日本は四月が入学のシーズンだろ。あの大学の前の総長は、そうと
うな美術好きで、結構なコレクションを持っている。私も随分お世話になった。先代が亡くなって息
子が総長を継いだが、どうも評判がいまいちらしい。そこで、世間の眼を惹くためになんとかでき
ないか私に協力を求めてきたんだ。絵を買うのは、協力の交換条件だよ。私が手助けとしてなに
をすべきかはそれとなく察しがついている。明日になれば、はっきりするよ」
「若い恋人は? ほっとくんですか? ……」
「明日はビジネスだ。あの子には独りでゆっくり買い物でもしてもらって、最後に京都見物をさせて
やるつもりだ。観光案内を頼むよ」
「奥さんも子供もいるんだろに。しゃくだね。あんな美人連れて……」
啓はちょっぴり辛子を利かせてやった。
ロロザの大きい図体が急に縮こまったように見えた。顔色がくすんで口がへの字に曲がってい
る。
「結婚して二十五年たつ。女ってのは……。とくに更年期を過ぎた女は手に負えんよ。その上、フ
ランス女の傲慢さをのっけられちゃあ……もう息苦しくって」
ロロザの全身から結婚生活に厭きた中年男の垢まみれの悲哀が滲み出ていた。への字に曲
がった口は直り、ラグビーボールを半分に切って貼り付けた突型の鼻の下が一層伸びた感じがし
た。
「そりゃ若くて肌がつやつやでスラっとした美人を抱きたくもなるでしょう」
アンナを恋し始めていた啓はロロザの気持ちがわからなくもなかった。
「クララは前の仕事からの知り合いなんだ。日本が見たいというから、こんど連れて来てやった。
パリに帰ってもカミさんには内緒にしてくれな」
「トップシークレットを守るんだからボーナス出してくださいよ。僕もお袋に世話掛けてるし、小遣い
くらいあげたいから。一日につき百フランの割増をしてくんないかな」
啓は、この時を逃す手はない、少し下司にとられても構わないと割り増しを要求した。「ふん。ひ
との弱みにつけこもうってわけだな。絶対洩らさない約束をしてくれるのなら考えてもいいが、百フ
ランは高すぎる。パリを出る時、経費節約に協力しますってあれほど売りこんでたじゃないか」
ロロザはぶすっとした顔で啓を睨み据えるといまいましげに言った。
「そりゃ若い美人を連れてくるなんて想像もしなかったですから。版画商売は儲からないって本気
で信じてましたよ」
(つづく)