二次性のナルシシズムは病的な状態。思春期か成年にみられる。自己への陶酔と執着が他人の排除に至る。
社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとする (これって、普通に誰でもが持ってる欲望、願望だよね。病的と言えないんじゃないか)。
自慢たらたら。他人の感情に鈍感で感情移入が少ない (ふむ。フランスではとても多く見られるタイプ)。
発達過程で幼児の自尊心が深く傷つけられたり、親の助けが足りなくてナルシシズムを育ててしまう大人もいる。自他を観念的に重く見過ぎたり逆に軽く見過ぎたりの間を揺れ動く。
子供はもっとも重要な人生のすべてに関わる疑問の答えを母に見出す。
「自分はどれだけ愛されているのか?」
「世界はどれくらい理解できるのか?」
より後の段階では、精神的な結合に加えて、身体的な結合を漠然と望む初期の性欲が、男の子なら母に向けられる。ここで「母」は概念化・内面化され精神分析で「超自我」と呼ばれる良心の一部になる。
(ここまではウイキペデイアの要約です)
「超自我」は「良心」と置き換えることができる重要な働きで、ルール、道徳観、倫理観、良心、禁止、理想を自我に伝える。一般的には無意識的で、理想的な親のイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので「幼少期における親の置き土産」と表現される。
フロイドは超自我と民族の伝統との関係を「精神分析入門」で次の様に説明している。
「子供の超自我は、実際には両親をモデルとしてではなく、両親の超自我をモデルとして形成される。子供の超自我の内容は両親のそれと同じものになり、このようにしてそれは伝統の担い手になる。つまりこのようにして世代から世代へと伝えられたあらゆる不変の価値判断の担い手となるのである」
「人類は決して現在にばかり生きているものではない。超自我のイデオロギーの中に、過去が、種族及び民族の伝統が生き続けており、この伝統は現在の影響や新しい変化には、ただ徐々にしか譲歩しないのであって、伝統は超自我を通して作用するかぎり、経済的条件とは独立した強力な役割を人間生活において演ずるのである」
ナルシシスムの定義から超自我へ発展し過ぎたが、上の「自己への陶酔と執着が他人の排除に至る」状態が極端に進むとナルシストとして周りの人に嫌われ、終いには社会から排除されてしまうだろう。
おおかれすくなかれ、芸術家はナルシストが普通だし、またナルシシズムがなければ芸術創造などありえない。
ヴァレリー自身が書いてることだが、一般にフランス人は他人の言う事を聴くよりも自分の考えを主張する方が好きだ。ヴァレリーも例外ではなく、晩年にジッドと会っても、自分のことばかり、南仏訛りで老齢のため子音を吞みこんで発音するのでジッドは聴き取りにくくて困ったと書いている。
ヴァレリーとジイドのナルシシズムは醒めたものであり、それは自己を極限まで見詰めようとする内省的な眼を意味した。
(つづく)

