残念ながら今調べている余裕が無い。察するに、マザランに対抗する意識が前者で、国王ルイ14世に忠実に仕える意識が後者ではなかったかと思う。これはフロンドの乱全体を通じて言えることで、フランスの民族的血筋の代表である国王ルイ14世とスペイン出身のアンヌ・ドートリッシュ太后、イタリー人のマザランという複雑な権力に対して、諸侯、貴族、軍人たちは、ある時は宮廷側につき、ある時は宮廷に叛旗を翻した。モットヴィル夫人も「覚書」の中に、どっちつかずの訳のわからない人たちが蠢く宮廷の混乱した様子を書いている。
釈放され自由の身となった大コンデ公は、マザランとアンヌ太后により逮捕され13か月も暗く冷たい城砦に閉じ込められた屈辱を忘れ得なかった。誰よりも気位が高く、自己中心的で、人の世話になるのが嫌いな性格のコンデ親王である。以後、公然と宮廷に叛旗を翻し、ギュイエンヌ地方へ、ラ・ロシュフーコーとボーフォール公爵とフロンド党の軍を集めに向った。
その時の国王軍にはチュレンヌが率いる軍と、アルクール元帥が率いる軍がいた。アルクールは、北方戦役で大勝利を飾った大コンデ公の代わりにマザランが総指揮官に任命し、コンデ公の不服を買った元帥である。
1652年4月1日、コンデ公はロリス(Lorris )というロワール河近くの小さな町に駐屯していたヌムール公の軍とガストン・ドルレアンがボーフォール公に託した小隊に合流した。ヌムール公とボーフォールは義理の兄弟だが仲が悪く、コンデ公が両軍の指揮を執った。
チュレンヌ率いる宮廷軍はブリアール( Briare ロワール河沿いの町 )に布陣し、国王は隣町のジアン( Gien )の城で休んだ。
この時、宮廷軍のオッカンクール元帥率いる軍が不用心に、ブレノー( Bleneau )という村へ軍を進めた。ブリアールから20kmほどのところである。おらが村のサンファルジョー からわずか12kmのところにある。
4月6日の夕方から7日にかけ、コンデ軍はオッカンクール元帥率いる宮廷軍の横腹を攻め撃破した。オッカンクールはオーセール方面へ逃げた。
数時間の間、ルイ14世はジアンの城で捕虜になるのではと恐れた。チュレンヌはコンデ軍より数で劣ったが果敢に攻撃し、巧みな戦闘をし、ヌムール公が腰に負傷するなどもありコンデ軍はエタンプ方面へ退却した。
この戦いは「ブレノーの戦い」として戦史に残されている。後にナポレオンは回想記でコンデとチュレンヌ二人の将軍を批判し、コンデ軍は数において勝ったのだからもっと押すべきだったし、チュレンヌはコンデ公という栄光に満ちた将に率いられた軍に対しリスクと取り過ぎたと批判している。
チュレンヌもコンデもそれぞれ自分たちが勝ったと自慢し、コンデ親王は、この後に触れるグランド・マドモワゼルに宛てた手紙であと一息で国王を捕虜にできたところだったと勝利を謳った。コンデ公は、4月11日、ボフォール、ラ・ロシュフーコーと共にパリへ引き籠る。
7月2日パリのサンタントワーヌ街で再びチュレンヌの宮廷軍と対峙する。この時はコンデ軍はパリの外から包囲されたパリを解放しようと進んできた。
バスチーユ監獄の砲台から大砲がチュレンヌ軍めがけて発射された。グランド・マドモワゼルがコンデ親王をパリへ入場させる為に発射させたのだった。
この事件をルイ14世とマザランはペールラシェーズのシャロンヌの高台から観ていた。後(同年10月21日)にグランド・マドモワゼルは追放令(流罪)を受け取る。こうして、おらが村のサンファルジョー へ、それから4年間、グランド・マドモワゼル
が住み、当時ヨーロッパでもっとも豪華なサロンを開き、文人を集め、ヴェルサイユ宮殿を設計した建築家のル・ヴォーにフランス古典様式の典型と言われるファサードを持つ城を造らせたのだった。
グランド・マドモワゼルは、アンリ4世の3番目の息子で、ルイ13世の弟(つまりルイ14世の叔父)のガストン・ドルレアンとモンパンシエ夫人の間に出来た娘(ルイ14世の従妹)で、名前をアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンという。
性格は大胆で、エキセントリックで、様々な王室から輿入れを持ちかけられたがすべて断り、自分でレオポルド大公と婚約を結ぼうとしてアンヌ太后に𠮟責を受けた。この時は、モットヴィル夫人が弁護し、ついにその「小さな演説が効を奏して」グランド・マドモワゼルは許された。
モットヴィル夫人は、この我儘な姫の性格をこう書いている。
「マドモワゼルは気性の活発さで、すること皆を駄目にしてしまった……。もう少し穏やかなやり方をしたら、何でも、もっと上手く行ったろうに」
1652年から4年間、サンファルジョーの城で暮らす間にグランド・マドモワゼルのサロンに出入りした文人には、ラ・ロシュフーコーは勿論、セヴィニエ夫人、ラファイエット夫人、作曲家のリュリー、建築家のル・ヴォーがいる。
フロンドの乱については、まだまだ調べることがいっぱいあるのだが、また別の機会に譲るとして、ここで一旦連載を終えることにする。
ただ大コンデ公のその後について簡潔に記すと
1652年10月21日、ルイ14世はパリに凱旋しルーヴル宮殿を王宮とした。
1654年3月27日、パリ高等法院はコンデ親王に「死刑」の裁決を下した。
以後1659年11月までコンデ親王はスペイン軍とともに戦う。ピレネー条約の締結によりフランスとスペインの戦争が終結。
1660年1月27日、コンデ親王はルイ14世の特赦を得て以後ルイ14世に仕える。
弟のコンチ親王はフロンド派として戦い続けていたが、1653年7月20日に、ペズナスの和睦により全ての軍を退き、これによりフロンドの乱は終結した。
大コンデは1668年にブルゴーニュ総督となる。
1670年からはルイ14世のオランダ戦役に従う。
1675年のチュレンヌ戦死の後を受け、アルザス地方でオーストリア軍と戦ったのを最後に大コンデ公は軍役から身を引きシャンテイイに引退した。
1686年12月11日フォンテンヌブローで没した。最後まで意識明瞭で、静謐だったという。伝統に従い、心臓が取り出され、鉛の箱に入れられ、サンタントワンヌ街のイエズス派の教会に祀られた。
コンデ親王の死を知らされたルイ14世は「余の王国随一の男を亡くした!」と叫んだ。何度も大コンデと敵対して戦ったオランジュ公は「ヨーロッパ一の偉大な男が死んだ!」と重臣に告げたと言う。
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