フロンドの乱 その8 10月24日の宣言 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

7歳でアンヌ太后にお目見えし、太后が死ぬまで傍を離れず身辺の世話と、時には苦しい心の内や「秘密を明かしてくださ」るまでに信頼を受けた侍女(コンフィデント)のモットヴィル夫人(フランソワーズ・ベルトー)が書き遺した「覚書」(Chronique de la Fronde - Madame de Motteville )がある↓

フランスの田舎暮らし-覚書

このクロニクルはアンヌ・ドートリシュが摂政に就いてから没するまで傍を離れなかった著者が、アンヌ太后を中心とするルイ14世の宮廷の日常を克明、公正な眼で綴った貴重な記録(本文だけで800ページ)である。これによると、8月28日のバリケード解除は高等法院において破毀院の検事長が出した命令によるものだった。

モットヴィル夫人(フランソワーズ・ベルトー)の母はスペインのサルダーニュの貴族の出身で、国王付侍従ピエール・ベルトーと結婚し、ふたりの間の長女としてフランソワーズは1621年頃生まれた。スペイン語を話したのでスペイン出身のアンヌ・ドートリッシュが喜び、生涯信頼を寄せた。

フランソワーズは17歳の時、会計院長官で80歳(!)のラングロワ・ド・モットヴィルの妻となるが20歳で寡婦となった。おらが村(サンファルジョー)と関係深く、アンヌ太后の次の位にあったグランド・マドモワゼルとの書簡もあるので後に触れるが、リシュリューの時代は太后アンヌの周辺からはスペイン語を話す侍女はすべて遠ざけられフランソワーズもノルマンデーの田舎に身を潜めていたのだが、アンヌが摂政になり宮廷へ呼び戻された。

さて1648年8月28日に戻る。
ブルーセルは英雄となった。ほぼ百パーセントのパリ市民の支持を得ていた。その高潔な人柄、質素な暮らしに、高等法院評定員の徳をもって市民の利益を守ってくれるとパリ市民は信頼を寄せた。

裁判官達は連日討論を続けた。なによりも税の値上げに苦しむ民衆の不安、不満を除き安心させなければならない。アンヌ太后が持ち出した協定を受け入れはしたが、問題は山ほどあった。

最大のものは「王会(Conseil)」と高等法院の権限の線引き、つまり、そのころ曖昧でグレーゾーンが多かった、両者のスコープ・オブ・ワークを明快にすることだった。

さらに、高等法院の大法廷にはアンシャンレジームの間、「親裁座」と呼ばれる、国王が裁定を下す時に座る席があった。この「親裁座」の定義、どのような場合に国王の判決が介入するかを決めねばならなかった。

大革命まではフランスの徴税は請負制で税金の取り立てを職業とし、取り立てた税の何パーセントかを報酬として請負人が取っていた。民衆からは当然憎まれる。大革命時代に断頭台に乗せられた近代化学の父、ラヴォワジェはこの徴税請負人だったためにギロチンにかけられた。

ブルーセルのグループはこの徴税請負人がピン撥ねしている莫大な額の手数料を引下げさえすれば市民からの徴税の率を上げなくても充分国庫が賄えるとした。そして、(この時代とこの国に限った事ではないが)役人と廷臣の間に蔓延していた公金着服と贈収賄を取締まらねばならない。

ブルーセルたちは、他にも間接税、とりわけ、肉、ワイン、塩をパリに持ち込む際に課せられる関税の率を下げる提案をした。これら一連のことは財政に限られるが、アンヌと取り交わした王会の権限たる政治問題に関わり協定を破ることになる。それで、官吏の保護、国王の国璽が押された紙切れ一枚で役人が逮捕拘留される事があってはならないという項を加え、すべて箇条書きにし、宣言として公布した。「1648年10月24日の宣言」と呼ばれる。その第2条、間接税についての条文の末尾にこう謳っている。

 「我々(宣言は国王と王会が告知する形をとっている)は極めて厳格に、徴税請負人、その書記、その他すべての者が、将来、上記諸税を思惑により上げる事を禁じ、犯した場合は罰を科す」

上の「間接税、とりわけ、肉、ワイン、塩をパリに持ち込む際に課せられる関税」だが、この時代のパリは例えば北は、モンマルトルの丘の麓のサンドニの門が北辺だった。地方からパリへ肉、ワイン、塩を持ちこむ時は、関税と通関料を払わねば門を通過できなかった↓

フランスの田舎暮らし-サンドニ門

1648年の9月から翌年の1月までにパリでは、王室と高等法院を中心とするパリ市民は、軍事的解決が避けられないと観て
それぞれに軍隊の準備を進めたようである。この時代の軍隊はフランスも傭兵が主体だったから宮廷の護衛はスイス人の傭兵が多かった。(徴兵制を作り国民皆兵を世界で初めて実現したのはナポレオン・ボナパルト)。マザランはパリ郊外のヴァンセンヌとブローニュの森に数千の兵を常に待機させていた。

上述のモットヴィル夫人は「覚書」に、この年の秋ルイ14世は天然痘 (petite verole)に罹ったと記している。

さらに、パリでは民衆が、マザランを捕えて死刑にしろとか騒ぎ、マザランの館をパチンコで攻撃し、石で窓ガラスを割るなど騒然とし始めたので1649年の正月の東方三博士の祭りの間にパリを脱け出し、西の郊外のサンジェルマン・アン・レイの城へアンヌ太后、ルイ14世、マザランとも移住する。その時の警護を大コンデ公に依頼した。

フランスの田舎暮らし-サンジェルマン

1638年ルイ14世はこのサンジェルマンの城で誕生した。1689年にヴェルサイユ宮殿に移るまで、ここが居城となった。太陽王が造らせたセーヌに沿いラ・デファンスとパリを遠望する長く真っ直ぐな遊歩道(テラス)が現在も人々の憩いの場となっている。パリから行くにはRERが便利。同じサンジェルマンでもボリス・ヴィアンやサルトル・ボーヴォワールなど第二次大戦後の実存主義作家が溜まり場にしていたカフェー・ドーマゴと教会のあるサンジェルマン・デ・プレはシテ島の眼と鼻の先で、こちらへはメトロに乗らないと田舎へ連れて行かれる。


(つづく)

                       
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