ソーニャとマグダラのマリア | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

「罪と罰」を書くにあたってドスチエフスキーがマグダラのマリアを念頭に置いていたことは疑う余地がないだろう。とりわけソーニャの像を創るにあたって。

ラスコルニコフが、高利貸しの貪欲吝嗇な老婆アリョーナを斧で殴り殺すところまでは、「非凡人」である筈のオレが社会の害になる吝嗇婆を殺してもシラミを潰すようなもんだから罪を感じないと、いわば想定内の犯行を計画どおりやったに過ぎなかった。

しかし偶然が、犯行現場に老婆の妹のリザベータを立ち会わせる。ラスコルニコフは今度は斧の刃を彼女に振りおろし殺害する。赤い血が夥しく流れる。

リザベータの殺害がラスコルニコフを苦しめる。犯行時、ペンキ塗り替え中のアパートにペンキ職人が階段を昇り降りしている。うまく扉の隅に隠れて、人に見られずに済んだラスコルニコフは、予審判事ポリフォーニーの執拗な追及を、自白ぎりぎりの鬼気迫る弁論で躱す。

居酒屋で酔い潰れたマルメラードフの陋劣。貧乏が極まると人間最後の支えである自尊心までも捨て去り自分で自分を貶しめる。退嬰的になってゆく。安保闘争に敗れた学生たちが、貧乏ではなかったが心情的に自分で自分を貶しめていった、60年代は、マルメラードフの救いようのない悲嘆と似たところがある。

マルメラードフは自分の娘「ソーニャ」を売春婦にしてしまったことを最後まで苦に病んで、馬車に轢かれて死ぬ。

「ソーニャは立ち上がりましてな、ショールをかぶり、マントをひっかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻ってきました。はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルに並べました。
やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍に寄りましてな、一晩中その足元に膝をついて、足に接吻しながら、らがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました」

「足に接吻」する場面が「罪と罰」にはなんども出てくる。


フランスの田舎暮らし-simonpharise450

----(神様が)最後の日にやってきて、こう訊ねて下さるだろう。「意地の悪い肺病やみの継母の為に、他人の小さい子供の為に、われとわが身を売った娘はどこじゃ?さあ来い!わたしはもう前にも一度お前を赦した……もう一度お前を赦してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……」

「赦し」のキーワードがすでに、マルメラードフの口を借りて示される。「一度お前を赦した、今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……」という言葉は聖書にも出てくる。

馬車に轢かれたマルメラードフを家まで運んだラスコルニコフはソーニャに出会う。

ソーニャがラスコルニコフに朗読して聴かせる聖書の一節こそ、ベタニアのマリアの兄弟のラザロを蘇らせるキリスト、「ヨハネによる福音書」の第11節だった。---さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニアの人であった。このマリアは主に香油を塗り、自分の髪の毛で、主の足を拭いた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟のラザロであった。(日本聖書協会1984年版)

ベタニアのマリアとマグダラのマリアは同一人物であり、ラザロの病気はレプラ(癩病、ハンセン氏病)。さらに娼婦はレプラの運び手と見做されていた。マグダラのマリアはキリストによって悔い改めた娼婦と見做されていた。

13世紀のヨーロッパには托鉢修道会の活躍とともにマグダラのマリアへの信仰が盛り上がりを見せ、各地に回心して足を洗った売春婦を収容する施設が出来た。マグダラのマリアは娼婦たちのアイドルとなってゆく。

主イエスはラザロが病気だと聞いてから、なお二日同じ所に滞在した。弟子たちに
もう一度ユダヤに行こうと言う。弟子たちは、ユダヤ人たちは先ほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、と止めるがイエスはラザロの眠って(死んで墓に葬られて)いる場所へ行き、復活させる。

イエスは彼女(マルタ)に言われた。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

むろんラスコルニコフはニヒリストであるから、ソーニャの朗読を聴いたところで、単純に、主キリストを、神を信じるわけがない。

ソーニャは、この一節を読み、彼女の信仰を示した。ソーニャの揺るがぬ愛は、肉体を汚しても魂の救済と「赦し」があることを信じる。

ソーニャの愛によって、半ば改心したラスコルニコフは広場の真ん中で四方へ向い「私が殺した」と大声で告白し、大地へ接吻し、自首する勇気を得る。

シベリアの流刑地へ行くラスコルニコフにソーニャは、付き添って刑場でほかの流刑者に交わって暮らす。最後にソーニャの膝を抱き、改悛したラスコルニコフの心に光が射し、喜びとともに「赦し」を待つ。7年の刑期がたったの7日のように感じると。

復活したラスコルニコフとソーニャの魂は、神が天地を創造したもうた7日をもう一度やりなおす意味を作者ド翁は与えたのではなかろうか。


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