19世紀の終わり、ヨーロッパは人口が爆発的に増えた。古い因習と頑固な階級社会。ヨーロッパで階級間の移動は不可能か極めて困難であった。中間から下層にかけての若者は自国で社会的成功を勝ち取ることを諦め多くは努力次第で偉くも豊かにもなれる新大陸に憧れた。アメリカへ大量の移民が押し寄せた。
1870年代には移民の第二波がアメリカに押し寄せる。大半はヨーロッパからで、イギリス、オランダ、スウエーデン、ノルウエー等から仕事を求めて海を渡った。
1890年代になると移民たちの傾向が変わり、イタリア、ブルガリア、ポーランド、ギリシャ、ロシアからの移民が増加しその数は600万人にも達した。
移民は産業の発達のズレということで説明できるだろうか?貧しい地域から豊かな地域へ。産業が十分発達せず、経済的水準が低い地域から高い地域へ、人々は夢を抱いて流れる。
アメリカはますます人種の坩堝となり、どこの馬のホネともわからないやつばかりが集まった港や工事現場で、体力にものを言わせ、稼げるだけ稼いで金持ちになるんだと一種野蛮で激烈な競争(野蛮な資本主義の時代とフランス人は呼ぶ)の時代に生れたのがテーラーの「科学的管理法の原理」である。
最初におことわりしますと、テーラーのこの本は、肉体労働に関しての労働科学の最初の著述なので、「ヅク運び」とか「ショベル作業」とか「レンガ積み」といった手作業の労働を扱い、けっして頭脳労働、知的労働についてのマネジメントの本ではありません。
ニューヨークは1910年代から超高層ビルの建設ラッシュに入っていた。市街地の中心がグリニッジヴィリッジさらに北上してブロードウエイから5番街へ移る。エンパイアステートビルとロックフェラーセンターができたのは1930年代。
移民ばかりが集まって行う力作業に公平な賃金分配を期待する方が無理。そういった状況は、親方、現場を取り仕切る、力ある者の主観的裁量がモノを言い、どんぶり勘定で支払いが行われる。親方に気に入るか入らないかで稼ぎが違ってくる。勢い込んでヒトの倍働いたのに親方の気に入らず、要領よくのらくら働いたヤツが実入りが良かったりする。そういう不公平を無くせないものかとフレデリックは自らも製鋼所で肉体労働をしながら考える。
そして、雇用者や仕事の依頼主(施主)にとっての、これだけの工事を何日間で幾らで出来るのかを知ること、つまり見積もりの必要性と、最適価格で最も早く仕上げる、つまり作業能率を極限に上げるにはどうしたらよいか?を意識して研究したところからテーラーの方法が生まれた。
フレデリック・テーラー (Frederick Winslow Taylor , 1856 - 1915) は、ベスレヘム製鋼所に職工として働いた時の体験と、職長になった時の責任から、゛一日の公正な作業量゛の必要を痛感し、初めてストップウォッチを工場の作業現場に持ち込み、「ズク運び作業」、「ショベル作業」の研究を行い、ついに1910年「科学的管理法の原理」を出版した。テーラーの行った研究は「時間研究( Time Study )」と呼ばれ今日でも有効なものである。
彼は労働という連続した活動も、いくつかのまとまった要素となる作業の集合であり、これらの要素となる作業に、ある一定の時間を割り当てることが出来るのではないかと考えた。要素作業という考えと単位時間という人間の活動に分析的思考を当て嵌める合理的管理法の誕生だった。
テーラーによって、野蛮で封建的な親方の専制的支配を、一定の科学的合理的考えと方法を取り入れた近代的、進歩的管理に置き換えることが出来た。
労働科学、今日でいうIE(Industrial Engineering )へ向って労働の歴史にとり記念すべき、第一歩が踏み出された。
フレデリック・テーラーが「科学的管理法の原理」を著わした1910年、日本はどんな状況にあっただろうか?
山川出版社「日本史」坂本太郎編の年表をみよう。
1910(明治43)年
3月 憲政本党解散。立憲国民党結成。地租条例改正
4月 白樺創刊
5月 三田文学創刊
6月 大逆事件、幸徳秋水捕えられる、長塚節:土
8月 韓国併合、朝鮮と改称
9月 朝鮮総督府設置、寺内正毅総督となる
11月 白瀬中尉等、南極探検に出発
長塚節の「土」は当時の東北地方の農民の窮乏を厳しいリアリズムと抒情で描いた傑作である。大逆事件は日本の権力が天皇不敬罪を理由に言論を弾圧し、国民から自由を奪う方向への舵切りを象徴する事件であった。
年代を少し先に進む。
1911年、日本では、1月 幸徳秋水等死刑
中国では、10月辛亥革命、革命軍武漢占領、袁世凱総理大臣となる。11月外蒙古独立宣言。
ヨーロッパでは、1911年ラザフォードが「原子核」を発見する。
1912年7月 明治天皇崩御、大正天皇即位
中国では 1月 中華民国成立、孫文、臨時大統領に就任、
2月宣統帝退位宣言、清朝滅亡
1913年 3月 孫文等日本に亡命
9月 広東軍政府組織 孫文大元帥就任
10月 満蒙五鉄道設置権獲得
1914年7月 第一次大戦勃発
8月 日本、ドイツに対し宣戦、大戦に参加
9月 日本軍山東半島に上陸
11月 日本軍青島占領
1915年1月 日本(大隈内閣)中国に対し21カ条要求
5月 中国21カ条受諾、調印
アインシュタイン相対性原理
1917年3月 ロシア革命(3月革命)
11月 ボルシェヴィキ政権掌握、ソヴィエト政権成立
1918年1月 ウイルソン14カ条の平和意見発表
1919年1月 パリ平和会議
6月 ヴェルサイユ条約調印
ヨーロッパでは、この年、ラザフォード、α線を窒素原子に衝突させ酸素に変換「原子核の人工変換」に成功する。
日本は満州への足がかりを得た。中国の東北四省は日本の「特殊権益」の土地となり、その権益は1905年のポーツマス条約と、1915年の対中国21ケ条要求により獲得された。
1930年代に満州に移住した日本臣民の数は100万人に達した。が、そのうち80万人は朝鮮から移住した農民だった。日本の農民は疲弊しており、とりわけ東北地方は長年続く冷害で食べる物さえなく、木の皮、草の根までも食べて飢えをしのぐ有様だった。満州に新天地を求め、維新以来の既成財閥に支配された日本国内を脱け出て、いくばくかの株を買うことにより民衆も事業の拡大に寄与し、利益の分け前にあづかれる、新しい形の産業形態を新天地で実現するとの喜望に燃えて、幾つかの産業が新興財閥、新コンツエルンとして満州に移住進出した。その代表が日産であった。
この点だけ見れば、日本人の満州移住は、19世紀末に始まるヨーロッパからアメリカへ移住した多くの中・下層階級の民衆の上昇志向とその性質を同じゅうしている。
しかし、決定的な違いがあった。日本人にとり満州は単に新天地であるだけでなく、「聖地伝説」にもとづいた土地であった。それは日露戦争による「十万の英霊、二十億の国帑(ど=お金)であり「明治大帝の御遺業」(橋川)であった。単に権益擁護という法律的意識よりも、もっと奥深い感情と結びついていた。「それは曠野にそびえる忠霊塔のイメージをともなう聖地であり、国民感情を無限に刺激する使命感の源泉でもあった」(橋川文三・アジア解放の夢)
上の点がアメリカへの移民と決定的に違っている。むしろ、この移民は、19世紀を通じフランスから北アフリカ、特にアルジェリアに移植した「ピエ・ノワ」と呼ばれるコロン(植民者)と比較されるべきだろう。それについては次回に譲る。
満州を「聖地」と見做す感情は日本人だけのものであって中国人にとっては「対支21カ条」要求は屈辱以外のなにものでもない。
「君も知るごとく民国4年の今日はすなわち日本が中国を脅迫して二十一カ条の要求を承認せしめた日である。この要求を貫徹してから日本は南満州を植民地とし、年々千或いは万に近い日本人が満州に来て農耕に従事している。(中略)日本は土地狭く人口多く本国では住みきれないためにみなわれわれのほうへ割りこんできて、われわれの行く先をなからしめる。自分はおそれる。将来南満州も住み切れなくなったとき、彼らは諸君のいずれの方面へ進まんとするのであるかを。十八年五月七日」
(「南満州からの手紙」中国の中学教科書掲載:同じく橋川文三の「アジア解放の夢」ちくま学芸文庫から引用させて頂きました)
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