五月晴れのパリ 27 モラトリアム | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

6月に入っていた。パリのあちこちの庭にバラが咲いていた。朝四時過ぎには薄明るくなり、夜は10時過ぎまでも明るい。カラフトの中ほどの緯度にあるパリは夏と冬との差が激しい。

フランスの田舎暮らし-ばら

渉はできるだけ沢山の美術館を観ておこうと、あちこちの美術館を巡り歩いた。小さな美術館が訪問客も少なく落ち着いて絵やデッサンを観ることが出来た。トリニテ教会近くのギュスターヴ・モロー美術館。東洋の仏画を彷彿させるこの画家に渉は一時期心酔したことがあったが、「サロメ」も観たし豊富なデッサン類を閲覧できて、渉を堪能させてくれた。


フランスの田舎暮らし-sarome

サンジェルマン・デ・プレ教会裏のフルステンベルグ広場にあるドラクロワのアトリエも興味深かった。サンシュルピス大寺院の入ってすぐ右手の壁にドラクロワの壁画がある。一人の画学生が三脚を立てたキャンバスに向い熱心に模写をしていた。


フランスの田舎暮らし-furus550

渉が、数度訪れ、その度に昼食も忘れて見入った絵が並んでいたのはチュイルリー公園のコンコルド広場側の外れにあるオランジュリー美術館だった。ここは印象派の画家たちの絵が沢山展示してあった。後にジスカール・デスタン大統領を記念して、かつての鉄道の駅が改造されオルセー美術館となり、オランジュリー所蔵の絵はすべてそこに移転された。

オルセーは駅として建設された為に、どうしても採光の具合が良くない。夏場は光線が強すぎるし冬は冷たい青白い光になる。オルセーが出来てからも、なんどか渉は印象派の絵を観に行ったが、オランジュリーで見た時の方が温かみのある自然な色合いが出ていて良かった。とくにモネの積藁の絵だとか、光と空気を描こうとしたモネの目指したところがオランジュリーの柔らかな光の下で最高に発揮されていた。オランジュリーの地下にはモネの睡蓮の連作があった。

モネを日本で見た時に渉はその色彩、特に影に紫
が使われているのに感心したが、フランスへ来て見て、それがモネの発明でなく、フランスでは自然の光の作用なのだと知ることが出来た。フランスの自然は、モネが描いたように濃い紫から明るいオレンジへグラジュエーションを見せるパステルカラーの風景を作る。影も黒でなく、明るい紫色を帯びて見えるという発見をした。

観光ヴィザぎりぎりの3カ月までフランスにいて、その後英国とギリシャを訪ね、北米を回って日本へ帰る。それが当初渉が漠然と立てた旅の予定だった。旅立つ直前まで勤務した日本の会社には3カ月の特別休暇を貰ったのだが、旅行を終えて再び同じ会社に戻る気持ちはなくなっていた。サラリーマンとして地位を固め、結婚し子供を作り育てる。それなりに大変だろうが、もうそうした定まった人生を送る気はなかった。未知なゆえにわくわくとした冒険へ向けて不定型な状態をいつまでも続けていたい。未知なる未来へ向けて賭けをする方に生甲斐が感じられた。渉は同世代のだれよりもモラトリアムを長く過ごした。

仕事でフランス語を使う機会は3カ月に一度あるかないかだった。学園紛争に嫌気をさして、教職の免状も取らずに大学を飛び出したので、いまさら研究者として大学に戻ることなど問題外だった。まだ中級程度のフランス語を、この際、パリへ残って身に付け、稀少価値としてのフランス語で、身過ぎ世過ぎをして行くことの方が現実的かもしれない。渉は次第に、フランスへ残る方向へ方針転換し、方策を立て始めた。

「予定を変更するのはよくないわ」
ベベットがやんわりとした口調で渉の方針転換を批判した。

「日本の家族に心配を掛けるでしょう」ベベットは言うのだが、僕は次男だから、責任も無いし、どうなってもいいのさというようなことを渉は内心呟いた。

フィリップが暗示してくれた通り、渉は大学に登録しようと考えた。まずは8月に始まる夏期講習に登録してフランス語に磨きを掛ける。その後、行けそうなら学部か大学院に登録を考えればいい。登録には幾つかの証明書が必要で、渉は母親に宛てて事情を訴えフランスにもう少し残って勉強したいので戸籍謄本など書類を送ってくれるよう懇願した。

一方で3カ月の休暇を貰った会社には、フランスに留まるので休職ではなく辞職したい旨手紙を書き、3年間の在籍証明書を依頼した。休職願いを出した直前まで会社では組合作りをして社長とはひと悶着あったので、もしや証明書は発行してくれないかもと懸念したが、社長は速やかに証明書に署名をして送ってくれた。

ヨーロッパの旅に出たいと社長に
休職を申し出た時、ハーバードを出た社長は、「そんなつもりでウチに就職したのか」と裏切られたような表情をしたが、翌日には、しかたない、こんどはキミの二の舞を踏まないよう後釜を探すよ。「キミにはこれを読んで貰いたい。プレゼントだ」と言い、部厚いサミュエルソンの教科書的著作「経済学」の原書を差し出した。


 (つづく)

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