ブーローニュ・ビヤンクールはこの森とセーヌ河がパリを横断しエッフェル塔とトロカデロの手前で南へ向けて曲がり、さらにパリの外周を囲む環状道路を超えてから大きく北へ蛇行する、森と河に挟まれた巾着形の地形にあり、パリ市とは行政上別の市となっている。
パリ18区の南端、ヴェルサイユ通りをそのまま真っ直ぐ進むと、ブローニュ・ビヤンクールの市街を横切り、バスの発着所の先にセーヌ川に掛かる橋、ポンド・セーヴルに出る。メトロの駅がこのバス発着所の近くにある。橋を渡れば、セーヴル焼きの工場と、その奥の、かつての宮殿の跡サンクルー公園に行くことができる。サンクルーの南側は小高い丘で、ムードンの高級住宅街だ。
モロワ先生は橋の手前のブローニュ・ビヤンクールの住宅地に、60を過ぎた御母堂と黒い犬とで静かに暮らしておられた。
ブローニュ・ビヤンクールを著名にしているのは、ここがフランスを代表する自動車会社ルノーの発祥地で、最初の工場がセーヌ河の中の島、スガン島にあり、河を挟んでパリ側に本社があったためだ。
スガン島の工場はもう10年以上前に閉鎖が決まり、いまは跡地で、本社敷地とともに再開発が進んでいる。
ルノーは1996年に公団が民営化され、ムードンから10kmほど西のヴェルサイユの南のサンカンタン・アン・イヴリンヌの広大な敷地に斬新なデザインの研究所兼本社を建てた。隣にフランシス・ブイグが築き、一代でNo.1にのし上ったゼネコンの壮大な宮殿がある。
ルノーの創始者はルイ・ルノー。お爺さんの代はボタン製造をしていた。ルイは器械いじりが好きで根っからの技術屋だった。1912年にルイはアメリカを訪れ、数年前にフォードが始めたT型の流れ作業による大量生産の現場をカリフォルニアのリバー・ルージュ工場で目の当りにした。
整然としたコンベアの上を車が流れるに従って部品が組み付けられてゆき、ラインの終わりで完成車が出てくる。ルイはすべてが規格化され同期化された流れ作業生産に魅了され、ビヤンクールに帰るや、さっそく導入を開始した。
だが、基礎が整っていない状態でフォード方式をいきなり導入してもうまく機能しない。労働者は時間能率給の導入の不合理を納得できないとしてストに突入し、結局42日間という歴史的な争議となった。ルイは工場をロックアウトし騎馬警察官が出動するなど社会的事件となった。
第二次大戦中ルノーはナチス・ドイツに戦車を納入するなど対独協力したカドで国有化され、ルイは戦犯として投獄された。もともと腎臓が持病だったが、獄卒に後頭部を警棒で殴られたのが死因ではないかと推察される不幸な死に方をした。
1986年11月17日、時の総裁ジョルジュ・ベスがモンパルナスのエドガー・キネ通りの自宅門前でアクション・デイレクトのテロにより銃弾で殺された。1996年に民営化されるまでルノーはずっと国営であり、航空宇宙、鉄道、原子力と並んでフランスの国策産業の一環をなしていた。
ジョルジュ・ベスはルノーの総裁に就任したばかりで、暗殺の原因は、その前に担当した原子力機関にある。フランスが中心となり核燃料の濃縮工場の為のコンソーシアム、Eurodif(ユーロデイフ)にイランが加わり、ホメイニ革命を機にイランへの核燃料提供をフランスが拒み、革命政権はパーレヴィ国王時代にコンソーシアムに出資した数百億ドルの返済を求めたが、フランスがすぐに応じなかったため報復措置として極左のアクション・デイレクトを使い、ユーロデイフの創設者だったジョルジュ・ベスを暗殺した。
1968年のパリ五月革命の時も、ルノーは国営だった。ルノーの労働者がこの時に果たした役割は、この社会的事件の性質と、ゼネストに呼応した労働者が何を求めていたかを考慮する上で極めて重要。
五月初め、学生が大学とオデオン座など劇場を占拠した。デモに呼応し、労組も全国的にストを呼び掛けフランス全土がマヒ状態となった。
ド・ゴール大統領は事態収拾のためラジオ演説を行い、レフェランダム(国民投票)で自分の進退を問うと呼びかけた。が、これは学生や労働者の求めているものを全く理解しない的外れなものだった。一回目のド・ゴールの呼びかけは、学生の反乱に火を点ける結果となり、学生たちはパリの目抜き通りの敷石をはがし、車を横倒しにしてバリケードを築く。鎮圧に出動した機動隊は催涙ガスを放ち、学生は敷石と火炎瓶を投げなど激しくぶつかった。
学生2万人がブローニュ・ビヤンクールのルノー工場に押し掛け、労働者とともに工場を占拠しようとした。これに対し、ルノーの労働者たちは門を固く閉ざし、学生をひとりも工場内へ入れなかった。アナーキーな学生たちが工場を占拠し、自分たちの大事な生産手段である工場の機械、生産ラインを破壊することを怖れた。
労働者は学生とは違う。「労働者と学生の連帯」が観念にすぎず、知的労働者と肉体労働者、現に労働し労賃を貰って生活している労働者と、将来社会へ出て勤労する学生は相容れない、全面的に連帯し得ない立場の違い、クレバスが両者を分断していることが明らかになった。
パリのグルネル通りには労働省がある。水面下で、後の首相、大統領になる若きジャック・シラクが労組の委員長とネゴを進め、フランス経団連との交渉の場を設けた。この交渉で経団連会長は、最低賃金の30%アップを提案した。これによりゼネストが収集できるものと政府・経団連は楽観したが、労働者の求めているものは、たんなる賃上げではなく、働く環境、モード、コミュニケーションといったもっと幅広く社会のカルチャーに関わるものだった。古臭い規制からの解放を求めていた。この点では学生の要求と共通している。
ビヤンクールの中庭に集合した労働者に組合委員長は最低賃金の30%アップを勝ち取ったと報告するが、スト実行委員長のスト継続の提案が満場一致で可決された。
共産党系労組が10万人のデモを組織し、大統領官邸(エリゼ宮)に近いサンラザール駅前を埋め尽くした。政権の危機を感じたポンピドウー首相はド・ゴール大統領が軍隊をパリ周辺に待機させたまま行方不明になったことを知る。
5月末にバーデン・バーデンから帰ったド・ゴール大統領はフランスを経済的危機に陥れるゼネストを終息するためラジオで2回目の演説を行い、ナチス・ドイツに抵抗してパリ解放に闘ったレジスタンスを想起せよと呼び掛け、これに呼応する市民100万人がシャンゼリゼを埋め尽くした。
秩序を求める労働者はストを解除し、既成の社会秩序や古臭い道徳からの解放を求めた学生たちは1カ月に渡る解放区、万人に開かれた自由なお祭り騒ぎを終え学部に帰った。こうして68年パリ五月革命は終焉した。
(つづく)
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