五月晴れのパリ 10 ダントンとデイドロ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

オデオン座の前の半円形広場の真ん中から出ている道がオデオン通り(rue de l'Odeon )で、道の両側に古本屋とアンチークの店が並んでいる。劇場の前なので演劇専門の本屋がある。シルビア・ビーチが経営し、ジョイスの「ユリシーズ」を出版した「シェイクスピア&カンパニー」はこの通りの12番地にあった。

道を下ってゆくと賑やかなメトロ・オデオン駅の広場と、サンジェルマン大通りに出る。バス停があったり、映画が始まる時間には映画館の前に行列が出来たりする。広場の中央に建っている銅像は革命家ダントン。銅像の下が若い人の待ち合わせの場所になっている。

フランスの田舎暮らし-danton

東側の視界を塞いでいる大きな建物はパリ大学医学部。その右手奥に塀に囲まれて古びた屋根が載った建物が見える。かつての修道院で「コルドリエ・クラブ」があったところ。修道院はフランシスコ派で、ベルト代わりに縄を腰に巻き垂らしていたのでコルドリエの渾名がついた。
中世にはフランシスコ派はドミニコ派とライバル関係にありドミニコ派と関係があったジャコバン・クラブとコルドリエ・クラブは対立関係にあった。


フランスの田舎暮らし-コルドリエ

「コルドリエ・クラブ」はジャコバンと違い、赤貧の庶民の救済を目指し、入会金も取らなければ会費もなかった。

コルドリエ・クラブの会員証には「大きく見開かれた革命的な用心深さの眼」として「開かれた片目」が印されていた。フランス人権宣言の一番上にも、アメリカ合衆国の1ドル紙幣にも、この「見開かれた片目」は印されている。

ジャコバンよりも行動的で、フォーブール・サン・タントワンヌ街の労働者たちの意志を汲み上げ、国民議会が出来てからもたびたび民衆蜂起を呼びかけ加担した。

1791年にルイ16世がマリーアントワネットと国外逃亡を企て、ヴァレンヌで逮捕されると、「国王廃位」を主張し、7月17日には、シャン・ド・マルスのデモを組織し「1791年憲法」を成立させ、翌年の5月22日には再度蜂起を呼び掛け、国民議会におけるジロンド党凋落を引き起こしたのもコルドリエ・クラブだった。

コルドリエの会員には、ダントン、機関紙を発行したカミーユ・デムーラン、1793年7月13日にシャルロット・コルデイによって暗殺されたマラーがいる。

現在も残るコルドリエ修道院の入り口↓


フランスの田舎暮らし-修道院


オデオンの交差点でサンジェルマン大通りを横切りアンシャン・コメデイー通りへ入る。すぐ右手に二階のバルコニーに花が飾られた大きなレストランがある。パリで最も古い「カフェ・レストラン」のひとつ「ル・プロコップ Le Procop 」。1684年開業のこのカフェーには、ヴォルテール、ルッソー、デイドロの啓蒙思想家が常連で、さらにはベンジャミン・フランクリンが後に合衆国憲法の草稿となる文書をここで書いた。デイドロはこのカフェで度々百科全書の記事を書いている。

フランスの田舎暮らし-procop2

歴史に興味のある人にはたまらないカフェ・レストランだが、レストランは少々高い。
裏へ回るとカフェの入り口があり、この石畳の裏道(正式名称は中庭、クール・デ・コメルス・サン・タンドレ la Cour du Commerce-Saint-Andre )の方が趣があって面白い。裏への入り口はサンジェルマン大通りにある。


デイドロの銅像はサンジェルマン大通りを教会の方へ少し遡った小さな広場に建っている。デイドロが書いた「ラモーの甥」はセーヌの右岸のパレ・ロワイヤルに「お天気でも曇りの日でも」いつも出入りしている。ルイ16世とマリーアントワネットがヴェルサイユ宮殿から民衆に無理やりパリに引き立てられチュイルリー宮殿とパレ・ロワイヤルに幽閉されるまでは、パレ・ロワイヤルは娼婦がたむろし、その頃フランスに入って来たばかりのカフェーを嗜みながら革命談義が盛んに行われていた場所だった。


フランスの田舎暮らし-デドロ186

デイドロは18世紀に百科全書を生涯を掛けて編集し身体がボロボロになるまで働いた。今で言えば Wikipedia みたいな、ありとあらゆる分野に渡る知識の総合を企てたのだった。

大革命の最中、コルドリエ・クラブはダントン、マラーを中心に、「ル・プロコプ」に集まった。後にロベスピエール率いるジャコバンもここの常連となった。

ルイ16世の処刑が国民議会で僅差で議決された日、死刑に一票を投じたルイ・ミシェル・ルペルチエ・ド・サンファルジョーは、その日の夜、パレ・ロワイヤルで国王の護衛官パリスによって暗殺された。事実上、彼の一票がルイ16世の死を決定づけたからだった。

ルペルチエの遺体は、マラーの遺体とともに、このカフェーのヴォルテールが使っていたテーブルに安置され、その後、国民の英雄を祀るパンテオンへと運ばれた。

フランスの田舎暮らし-sannfaru


数カ月後、ルペルチエ未亡人は悲惨な夫の最後を悼み、遺体と暗殺直後にダヴィッドが描いた夫の死の肖像を引き取り、ヨンヌ県のかつてルイ14世の姪のマドモアゼル・モンパンシエが亡命生活を送ったサンファルジョーの城に埋葬したのだった。毎年夏にこの村のシャトーで行われる住民総出のフェステイバル(野外劇)には冒頭必ずルペルチエの亡霊が出てくる。

 (つづく)

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