ギリシャ神殿のような円柱が石の階段の上に並び、半円形の広場を従えて建っている。18世紀の建築で1779年に着工し1782年に竣工した。
長い間コメデイー・フランセーズの第二劇場として国立劇場だったが、最近はヨーロッパの劇場に変身している。
オデオン小劇場でも良い演目を沢山やった。ベケットの「幸福な日々 Oh, les beaux jours」をマドレーヌ・ルノーが一人芝居でやったのを見に来た。
ド・ゴール大統領の統治下、文化相のアンドレ・マルローがジャンルイ・バローとマドレーヌ・ルノーに管理を任せたが、68年のパリ五月革命の時、学生たちが劇場を占拠し、映画監督のフランソワ・トリュフォーとジャンリュック・ゴダールも劇場を占拠する学生に加わり、バローとルノーは学生たちに劇場を明け渡してしまった。
アンドレ・マルローは怒り、バローとルノーをオデオン座から追い出してしまった。二人はその後、幾つか劇場を転々とした末、シャンゼリゼのグラン・パレの近く、ロンポワンに劇場を開いた。
コメデイー・フランセーズはルイ14世の命令で、当時の二大劇場「ゲネゴー劇団」と「ブルゴーニュ劇団」を統合して出来た。
ゲネゴーは喜劇作家モリエールの衣鉢を継ぐ劇団で、ブルゴーニュは悲劇を得意とした。フランセーズとしたのは当時人気のあったイタリア劇場の向うを張ってフランス座とした。コメデイーは喜劇だが、フランスでは悲劇も含んだ演劇と広い意味を持つし、俳優はコメデイアンと呼ぶ。
コメデイー・フランセーズに所属する俳優は国家公務員同様、一生生活が保障される。イザベル・アジャンニもジャンヌ・モローも、こないだ亡くなった映画女優のアニー・ジラルドも舞台出身の女優だ。
「カンヌ映画祭」がフランスで開かれる国際映画祭で映画部門の最高に名誉ある賞なら、「モリエール」はフランスの演劇の各部門に贈られる賞で今も毎年行われている。ただし、昨年亡くなったローラン・タルジェフだとか、本当の芝居をやりたくても予算が足り無いと窮状を訴える演劇人が跡を絶たないのは観ていて気の毒なぐらいだ。
アヴィニヨン演劇祭は「TNP=国立民衆劇場」を主宰したジャン・ヴィラールの演劇運動の一環としてはじめられたが、年々先細りとなり昨年は、ジャンヌ・モローが男優と机に座ったまま台本のセリフを読むだけの朗読劇をやった。
国の経済が落ちぶれると、いくら文化国家を標榜しても、予算が無いのでどうしようもなくなる。今の文化相はミッテラン大統領の甥っ子のフレデリックだが、伯父さんが二期に渡って大統領の座にあり、大ルーブルとガラスのピラミッド、デファンスの大凱旋門、バスチーユ第二オペラ劇場、国立図書館と次々と自分の治世を記念する大プロジェクトを敢行して国庫をすっからかんにしてしまった。
フランソワ・トリュフォーは新しい手法や角度から映画作りをしてヌーベルヴァーグ(新しい波)と呼ばれた監督のひとりだが、彼の映画には、フランス心理小説の伝統が脈々と底に流れている。「戦争や暴力は嫌いだからハリウッド映画みたいなのは作れない。ボクに出来るのは恋愛がテーマの映画だけ」と言って、ジャンヌ・モロー主演の「突然炎のごとく」から、イザベル・アジャンニ主演の「アデルの恋の物語」、ナチ占領下のパリでユダヤ人の演出家を劇場地下に匿い上演を続けた劇団の話「終電車(デルニエール・メトロ)。カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェラール・デパルデユーが出演した。
渉がゴダールよりもトリュフォーが好きなのは、古典的だからだろうか?ゴダールの「勝手にしやがれ」を大学の講堂で映画好きの連中が自主上映とかでやっていたが、機動隊導入後に、生協委員をやって忙しかった渉は、「なんでえ~こんなくだらない映画を大袈裟に持ち上げて騒ぎやがって」と好感は持てなかった。「貴違いピエロ」にしたって監督が面白がってるだけじゃねえかと思ってしまう。
それより、編集と物語作りに節度と気品が感じられ、観ていて引き込まれたり、終わった後に感動が残るのはやはりトリュフォーの映画だった。「大人は判ってくれない」、「ピアニストを撃て」、「突然炎のごとく(ジュールとジム)」、「柔らかい肌」、
「華氏451」、「黒衣の花嫁」、「野性の少年」、「アデルの恋の物語」、「終電車」とトリュフォーの映画が封切られるたびに観に行った。
ただゴダールには映像がいいなと思うものが幾つか記憶に残っている。アンナ・カリーナが電車に乗っていて窓から自然光が射し込んでる夢のような場面を今も忘れない。ゴダールはアルチュール・ランボーの詩をどこかで引用していた。「貴違いピエロ」だったか?
機動隊の居並ぶ中を、渉と小宮が教室へ行ってみると、がらんとした中に大勢が集まっていた。机と椅子がすべて持ち出され、むきだしの床の上に、人々は方々に新聞やビラを敷いて座っていた。知らせを聞いて駆けつけた、岡田や小山、大西の姿があった。人いきれや煙草の煙でむんむんする中を渉は座りこんだ人々に足をぶつけながら、彼女らのいる場所へ進んでいった。難民収容所じみたその教室は逮捕を目前にした反逆者の一団のように、今にも襲ってくるかもしれない機動隊に怯えた顔が溢れていたのだが、渉はそこを横切りながら一種新鮮な浮き浮きした開放感をわっていた。ストライキが始まってから、今日初めて多くの学生と心と身体を合わせて闘ったという一種の誇りと、今、ここに集まった学生は命令も統制もなしに機動隊に荒らされた学園を心配し、これからの方策を考えだそうとしているのだと思うと、途方もない幻想に胸が酔うのだった。それぞれの学生の頭の中に、機動隊と渡り合い、大学を取り戻すための戦闘と反乱のイメージが飛来しているのかと思うと、ここを解放し、まったく自由に支配しているのが自分たち学生であるという幻影にとらわれ胸が高鳴るのだった。
開け放たれた窓から、朝の空気が流れ込み、外の空き地に生えた常緑樹の反映が朝日とともに室内に射し込んで、煙草の煙を浮き立たせ、人々のさざめきが響きわたるとき、民衆自身の手になる解放区とはこのようなものかも知れないと渉は思い
一瞬感動に捕われた。
蜂起のパリをかけめぐり
熱い愛の陽に照らされて
機銃の把手のブロンズに
蒼ざめた尊いこの手
ああ!聖なる手よ!
ときとして両手を縛られて
鎖の澄んだ音が鳴り
陶酔の唇がそこに震える手
(アルチュール・ランボー詩集より ジャンヌ・マリーの手)
五月のパリの学生の反乱は、中国の文化大革命とともに、世界中に若者の反乱を波及させた。5月11日にはドイツのボンで5万人が、5月16日にはイタリアのフィレンツエで、18日にはローマでストライキ、そして同年夏には東京大学の安田講堂占拠へと続く。
パリの五月革命は具体的な社会改革を勝ち取ることは無く勝利とは言えないが、人々の生き方と社会心理を大きく変えた。それまでは、フランス社会は、非常に権威主義的で、会社やビジネスもルイ・フィリップの時代のままと言われていた。女性の社会的地位が明確に変わり、雇用の格差と給与の男女差は次第に縮まり、堕胎が公式に許されたのは五月革命以後のことだった。
(つづく)
ポチッと応援ありがとうございます↓
連載の励みになります。



