それから五年後、賢二はほんとうに横浜から船に乗ってパリヘ行った。
一年ほど経って俊一は賢二から手紙を受け取った。日本レストランに仕事を見つけ暮らしてゆけるようになった。最近はパリを描いた版画家シャルル・メリヨンに魅せられている。僕もメリヨンのように美しく端然として憂愁に満ちたパリの風景を描きたい。油彩よりは狭い部屋で出来る銅版画をやることに決めた。週一回は銅版画のプレスがあるアトリエに通っている、と賢二は書いていた。
その年の暮れ俊一は両親から頼まれてパリの弟に会いに行った。なにせ夏服にスーツケース一個だけを持って行ったのだから。屋根裏部屋は恐ろしいほどの小さな部屋で、シャワーもトイレもなく、朝は廊下のはずれのトイレから水を汲んできて顔を洗うといった生活をしているらしかった。
賢二はオペラ座界隈にある日本レストランに仕事を見つけたから、今後の生活は大丈夫だと書いていた。仕事といっても皿洗いと給仕だろうが、それでも暮らして行けるだけの給料が貰えるから満足だという。レストランが夜十時半に閉まると跡片付けをし夜中に自分の部屋に帰ってくる。翌朝はまだ暗いうちに起き朝のうちに絵を描く。独り狭い部屋に閉じこもって孤独に耐えられるかが心配だったが、友達も何人か出来たらしいし、それなりに楽しくやっているらしかった。パリの冬は暖房が入っていても寒いので親から預かった金でふたりでボンマルシェというデパートへ行き毛布を買った。
それから二十年、賢二は、最初の十年をパリで暮らしただけで、あとはフランスのあちこちを放浪して回ったらしい。家族には、ほとんど便りがなかった。俊一が最後にフランスから弟の手紙を貰ったのは、一九八五年のことだった。弟は、ブルゴーニュの農村にある小さな中世の教会のフレスコ画を修復していると書いてよこした。
「ここは、パリから百八十キロ南のオーセールという街に近い。それでも四十キロ離れてる。なだらかな丘陵地帯で、牛や馬や羊が一日中草を食んでいる。僕が住んでる村はそんな光景に囲まれている。クヌギやブナなどの雑木林がいたるところにあって、この辺はフランスでも屈指のイノシシ狩の名所らしい。冬になると鉄砲を担いだ狩人たちが教会の横の広場に車を置いて集合し、手分けして林に入ってゆく。うっかり林を歩こうものなら、どっかから散弾が飛んできそうで、おっかなくてしょうがない。
ここで仕事を始めてから、はや一年が経とうとしている。村のひとたちはみな親切だ。僕がこの仕事を見つけたのは半ば偶然で、半ばは何か残る仕事をフランスでしたいと探していた僕の執念に神様が答えてくれたのだと信じている。農家が十軒ほど集まっただけのこんな村ともいえない集落に、中世の教会があるなど、ちょっと信じられないことだが、傷みの激しいフレスコ画をみたとき、まぎれもない中世の画家の手になったものだと僕も納得がいった。村の人や県の史跡保存委員会のひとたちが修復を望んで国に予算を申請したけれども、国から降りる予算は、スズメの涙ほどで、ほとんどボランテイアに頼るしかないというのが僕が最初に話を聴いたときの実態だった。小さな壁画だけど、丁寧な修復をするには、最低十年は掛かり、こんな名もない田舎の村の小さな教会の修復などやっても、名声につながらないし、食べてゆくのが精一杯の報酬しか出ないので、だれもやりたがらないというのだった。僕は、その話を聴いたとき、すぐに、これは神様が僕にとっておいてくれた仕事だと直感したんだ。
教会の壁は傷んでるが、やっと数年前、屋根が修復されて、保存が確かになった。四つほどの壁面にキリストと弟子たちの聖書の物語が描かれている。絵は部分的に残ってるのみで、漆喰は剥げ落ち、線はかすれ、かろうじて顔の形が判別できる状態だ。人物の表情、顔の形、衣装の描き方は、まぎれもなく中世のものだ。色は黄色と橙が主体で、この地方(ピュイゼといいます)に自然に産する土(イエローオーカー)から採った天然の顔料を使っている。
教会の向かいの荒れ果てた司教館の一室を僕の寝室に使わせてもらっている。毎晩そこへ寝に帰る。店ひとつない、この村では、仕事だけが楽しみだ。春と夏は付近の牧場を散歩して気を紛らわしたが、冬の今は、現場と部屋を往復するだけ。週に一度、県の保存委員のピエールが車で迎えに来てくれ、オーセールの街へ出て、溜まった洗濯物をコインランドリーで洗ったり、買い物をしたり、庶民的なレストランを見つけて食事したりしたあと、また送ってもらう。それだけが仕事のほかの唯一の気晴らしだ。
なにより、僕の仕事が、この教会とともに、僕が死んだあとも、長い間、保存されるかと思うと、都会から離れ、孤独に、寒く湿気の多い冬の教会の中で、精神を集中して生乾きの漆喰に顔料を染めこんでゆく熟練と根気の要る仕事をしていて良かったと生甲斐を感じる。フレスコ画はフジタが残したチャペルを見てから秘かに練習を積んでいたのだ。
都会で慌しい生活を余儀なくされている大部分の人たちと、なんと違った生活をしているのだろうと、感慨が僕を襲うことがしばしばある。けれど、これを僕は望んだのだ。これを求めて、僕は日本を脱出したのだと思うと、こころの底から欲したがゆえに、誠心誠意、求めたがゆえに、この生活が与えられたのだと、思う。
今日は久しぶりに良い天気で太陽が教会の部厚い壁に唯一つ開いている窓のステンドグラスに当り、薄暗い堂内に光が射しこんだ。赤い焼き絵ガラスから射し込む光を見ていて僕は、いつだったか、もう遠い昔、兄さんと、あの丘で、赤く染まった夕焼け空と欅のシルエットを見ながら、図書室で手に取った本をきっかけに、西洋への憧れが、赤い色のイメージになって沸き、胸が締めつけられたって話をした時のことを想い出した。それで部屋に帰ってから、この手紙を書きたくなりました。あの時の夢が今、現実になったことを思うと、人生ってのはなんて不思議なものなんだろうと感じます」
それからまた二十年が経ち、年老いた賢二が帰ってきた。それまでも時々は日本に帰郷することがあったが、たいていは一週間とか二週間の短い滞在で、仕事の合間に昔の友達や買い物やをしてあわただしく帰って行くことが多く兄弟でゆっくり話をするということがなかった。だが、今度は一ヶ月というかなり長い滞在で、六十を過ぎた賢二は定年退職する決心をし、父親に挨拶しがてら、日本のまだ行ったことがない北陸などを訪ねて回った。フランスの田舎に家を買って、往年の夢を弟なりに適えた。晩年を安らかに過ごせる安住の地というものをやっと手に入れたわけだ。
「ホウトウ・ムスコの帰還になったね」
俊一は四十年前のあの日を思い出して賢二に言った。
俊一はグラフィック・デザイナーにこそなれなかったが、舞台芸術に関係した仕事を三十五年続けた。やがて停年を迎える最後の舞台装飾の仕事には、夕焼けの茜色を背景に欅が枯れ枝を広げたレース模様を使ってみたいと思っている。
(終わり)