存在だ。生きてゆくにはどっかで妥協しなければならないのだ。
俊一らの議論はそこでゆきづまった。それ以上議論してもどうなるものでもなかった。もう夜も更けていたので、政治についてはそこまでにして寝る前にだいじなカウンセリングをしておかねばと思い直し、俊一は切り出した。
「オマエ、好きな子いんだろ?……」
あやうく芳子という名が口に出そうになった。
「早瀬すみれちゃんはどうしたのサ?高嶺の花を恋焦がれるよか、気心の知れたコと仲良くなったほうがいいぞ」
そう言ったとき、ケン坊の顔色が変わった。表情が引き締まり、急にオトナの顔になったように見えた。
「ぼくは、おんなのコは、友達だけじゃ、モノタリナイんだ。そのお……、遠くから、
想って、恋い焦がれるっていうか……、胸がギュっと締めつけられて、痛くなるよう
な、崇敬の念、てんだろうかな。そういう、オモイがともなうもんじゃないと、満たさ
れないって感じるんだ。……だけど、そこが、ぼくが、いちばん苦しいとこなんだ。
なんでボクはこんなブサイクな顔してんだろ。鼻がダンゴで、歯がラングイで……」
ケン坊は幼児期に母親と離れて暮らしたために、母恋しの女性思慕が習い性になってしまったのだと、それまでにも俊一は俊一なりに弟の心の診断をやっていた。
といって母親やそれに代わる女性が常時そばに居て、あれこれ口やかましく、日常茶飯事に口を挟むと、賢二は苛立ち、ときにヒステリックに拒否反応を見せる。
「美しい彼女を崇める自分のオモイ。その想いを抱くゲンジツのボク。そのあいだに開きがありすぎるってんだろ」
弟の悩みはどうもそのへんにあるらしいと俊一は自分の経験と賢二の日記の盗み読みからうすうす予知していたが、賢二の顔を見ながら言葉をぶつけるにはかなりの勇気が要った。
「なんで、ボクはこんなフウに生まれたんだ。なんでボクはこんな、つらい思いをしな
きゃなんないんだって。あのコを想うボクの気持ちは、美しいあのコにふさわしい最高
の男でありたいと思うのに、現実のぼくを思うと、なんてぶざまで醜いんだって感じち
ゃうんだ」
俊一は、わかる、わかるよ、と二度うなずいてからカウンセラーの顔をして言った。
「理想の女性にふさわしい相手の男性は理想的であらねばならない。そう、思うから悩むんだろ」
わけしり顔をして言った俊一の顔を見る賢二の視線に明らかに不信の色が表れた。俊一は仕入れたばかりの知識をひけらかせた。
「人間のすべての行為やオモイの根源はリビドーって、まあ性欲だな、芸術も、宗教
も、文学も、恋愛も、すべてリビドーが根源だって説をとなえたのがフロイトだよ。
昇華作用っていうんだってサ」
「へえー。それが、どうだってのサ」ケン坊は口を尖らせ不服そうな顔をした。
「ようは、オマエのかわいいコへの想いも根は性欲だってこと」
「オレはあのコをだきしめたいなんておもわないよ。ほっぺたにそっとさわりたいと
か、キスしてみたいくらいはおもうけどサ。あのコをおもってもボッキしないもん」
「ふうん。恋愛感情をもつけど、抱きしめたいとはおもわない……。そいつは、ちょっ
くら、問題だぞ。性欲のない恋か……。どっか異常な感じがしないでもない。ホモでも
ないし。性欲のない愛……。ひょっとして、無性愛って言葉があるとしたら、オマエの
ケースは、それかもしれんぞ」
俊一は、これを書いている今になって知ったのだが、無性愛という言葉はある。特定の人に恋愛感情を抱くが性的欲求はなく、性行為を望まず、ときには身体的接触さえも拒絶する無性愛の人間がいるそうである。賢二はそういう人間の一人かもしれなかった。
(つづく)
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