レオナール・フジタの平和のシャペル | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

めのおは高校一年生の秋、「モンパルナスの灯」という映画を見た。
今からちょうど半世紀前、1960年のことである。

ジャック・ベッケル監督のフランス映画。
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モノクロだった。

モジリア二を演じたのが不世出の名優
ジェラール・フィリップ。

(コメデイー・フランセーズ所属の舞台俳優で
コルネイユの古典劇「ル・シッド」はレコードに
なりフランス語の教材として手に入る。)


恋人のユビテルヌをアヌク・エーメが演じた。


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若かった「めのお」はこの映画にいたく感動し、いつか必ずフランスへ行くんだと自らの心に誓ったのだった。

「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の画家たち。モンパルナッスを根城にして貧乏にめげず、美の女神への献身と新たな創造へ向かって奔放に若い命を燃やした。ほとんどが外国人だった。

めのおも彼らの様なボヘミアンな生活を夢見た。

めのおの夢が実現出来た時は、すでに1974年になっていた。

めのおはパリへ着くとすぐに画材屋に仕事を求めて回わり、屋根裏部屋の生活を始
フランスの田舎暮らし-ぱりでっさん めた。今でも幸運だったと感じるのは、この頃もまだ古き良き時代の余韻が残っていた。絵が好きというそのことだけで共感し合い、知り合いになり、様々なことで助けてもらえた。




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この映画にフジタが登場しないのが残念だが、モジリアニと藤田嗣治は仲が良く、一緒に地中海岸のカンヌへも旅行している。晩年を南仏で過ごしていたルノアールのアトリエを訪ね、モジリアニが「女のケツばかり描いて」と悪態をつき、藤田は棒のように動かなくなった手に絵筆を縛り付けて死ぬまで絵への執念を燃やす巨匠に感動した。

モジリアニは32歳で倒れ病院に担ぎ込まれて死んだ。ユダヤ人なので結婚を両親が許さず、8カ月の子供をお腹に宿していたユビテルヌは投身自殺をして恋人の後を追った。フジタはモジリアニの葬儀に数少ない友人として参列している。

モジリアニを演じたジェラール・フィリップもほぼ同い年の若さで世を去っている。

フランスでフジタは画壇の寵児となった。外国での評価に引き換え日本での評判はずっと悪かった。
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ひとつには藤田が太平洋戦争中に日本へ帰り戦争画を描いたこと。ひとつは何人もの白人女性と結婚離婚を繰り返し日本男児にあるまじき節操に欠けた剽軽で奔放な生活が日本人の反感を買ったこと。日本画壇を飛び出してパリで認められたことなどが理由に考えられる。

藤田嗣治は軍医総監の息子として生まれた。初代が森鴎外で藤田の父は二代目だった。子供を自由に教育し、若い藤田が画家になりたいと漏らすと即座に画材を買って与えたという。

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東京芸術大学の洋画科に入学し、黒田清輝の指導を受けた。しかし黒田がフランス留学で身に付けた外光派は印象派の後を受けたもので、影に黒は使わず紫を使えと指導した。

めのおが若い頃日本で観たモネの積み藁の絵は影が紫に塗ってあり、いたく感心した。モネの発明とばかり思い込んだ。フランスへ来て風景を見ると影が紫色をしていた。モネは発明したのではなく自然のままに描いたのだ。

藤田は卒業制作に黒を使った。指導の黒田が「悪い絵」の見本として皆の前で酷評したという。そういう「仕打ち」を受けた芸術家は日本画壇のアカデミスムに一生遺恨を持ち続けたとしても不思議は無い。

パリでフジタを有名にしたのは「偉大なる白地」( grand fond blanc )と評家をして嘆息
フランスの田舎暮らし-nude させた白人裸婦の白い肌の絵である。フジタが発明し生涯秘密にし誰にも明かさなかった新案特許。つい数年前、四枚の大作が発見され、5年掛けて修復作業がなされ初めてその白地の成分が明らかになった。

藤田は晩年をパリ南西郊外のヴィリエ・ル・バクルという小さな村に住居兼アトリエに適した家を見つけ、君代夫人と静かに暮らした。家の調度家具、裁縫までなんでもこなす器用な人だった。

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80歳になった1966年、ランスにチャペルを造ると決まった時、2階(庭側からだと3階)のアトリエの壁に漆喰を塗り、最も難しい画法といわれるフレスコ画の訓練、予行演習をした。


こんど「めのお」がトロワ経由、ランスへ行ったのは、藤田のシャペル、とりわけ「お墓」を確認するためだった。

もう20年ほども前、ヴィリエ・ル・バクルの村を訪ねたことがある。その頃は藤田の家は空き家として残ってはいたが記念館にはなっていず公開されていなかった。そして藤田の墓はこの村の墓地にあった。

2009年に君代夫人が亡くなった。藤田の墓も夫人と一緒に埋葬するためランスへ移されたと噂を聞いた。ランスというからにはフジタのシャペルに違いないと確認に来たのだった。冬の間は公開されず5月を待って、やっと礼拝堂に参詣ができた。

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上がシャペルの全景。右の丸く突き出た壁龕にフジタと君代夫人の墓がある。

80歳の老体に鞭打ってフジタはたったの2カ月で200m2のフレスコ画を完成させた。フレスコ画は漆喰が湿っている間に描かねばならない難しい画法。夜の11時過ぎまでも壁に向かい絵を描き続けた。この時の無理がたたって膀胱ガンが悪化し、スイスのチューリッヒの病院で1968年81歳の生涯を閉じた。

フジタの礼拝堂はランス市が管理する公共建造物で内部の写真は撮らせて貰えない。外部にあるものだけで我慢する。
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右は入り口のすぐ脇の壁にあるフジタのエンブレム。
レオナール・フジタのイニシアルL・Fが右上に、完成した年1966年の数字66が下の羊の脚の間に彫られている。

藤田嗣治は、1955年69歳でフランス国籍を取得、日本国籍が抹消された。

1959年、ランスの大聖堂で洗礼を受け、名前を藤田嗣治からレオナール・フジタと変えた。

フランスの初代の王クロヴィスの洗礼と戴冠式に始まり、歴代の王に聖油を塗布してきたランスの大聖堂で、普通なら一介の日本人が洗礼を受けられる筈がない。


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知己を頼り聖職会に働きかけ、有力な後押しがなければ実現が難しかった。フジタだからこそ可能にしたのだろう。

日本の国籍は外国の籍を取得した場合棄てなければならない定めになっている。二重国籍は原則許されない。

カトリックに入信することとそれは表裏一体の行為だった。


左の柱は礼拝堂の前に立つキリスト磔刑の十字架。

ふつう十字架にはキリストが磔になっているのだが、可愛らしい童子にしたところがフジタの独創だろう。

童子がお地蔵さんみたいに見える→
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この日、礼拝堂を訪れる人は
日本人よりもフランス人が多かった。

門の前にバスが2台横付けになり↓
50人ほどの主にお年寄りの
フランス人が
熱心にフレスコ画とステンドグラスに
見入っていた。


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フジタと君代夫人の墓のある
壁龕には両側に細長いステンドグラスがあり、そこにフジタがデザインした焼き絵が嵌められている。

それは単に天国の光を表すだけのものではなく、黒いドクロが描かれている。

戦争画を描いた藤田は人間界の地獄を垣間見たと思う。

多くの日本人画家の戦争画は、何を描いたかわからないくらい、曖昧なものだったが、藤田の絵は傑出して戦争の悲惨に目を瞑ることなく描いてあったという。戦後すぐ戦争画は占領軍の手で没収されアメリカに運ばれたが、その後、アメリカの所有のまま日本に送り返された。しかし一般には公開されていない。

フジタは明治生まれの日本人の心情を終世持ち続けた画家であったから、日本が世界中のほとんどの国を敵に回して闇雲に突っ込んでいった戦争で存亡の危機を迎えた時、国のために唯一役に立て得る絵筆をもって国に報いようとした。

しかし敗戦を迎え、知識人も含めた戦争責任が問題となった時、日本の画壇はフジタ独りに責任を被せようとした。フジタが日本人に裏切られたと感じたのも無理はない。

日本の国籍を捨て去ったフジタは戦争画を描く過程で眼にした地獄と「恩寵」というものを死の直前、「平和の礼拝堂」という石とガラスによる堅固な作品で後世に残したのである。



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