『君、人工物を写真に撮るのが好きだね。』
そう言われたことがある。
私はそれからずっと今まで考えていた。
そういえばそうだ。
勿論自然にはえているものも大好きで、月も空も空気も虫も雨も光も土も。全部大好きだけれども。
そういえば、私は妙に人工物を写真に収める傾向がある。
例えば
かすれ切った看板とか。
どこを指しているのか分からない標識とか。
廃れてしまった銅像とか。
妙にピンと形を整わせたホッチキスとか。
角度を変えると髭に見えるフックとか。
そういうどうでもいい人工物をよく撮っている。
何故だろう。私はヒト自体あまり好きじゃない。なのに、どうしてそのヒトが作ったものを形に、記憶に残しておきたいと思ってしまうのか。
その答えが今日の朝出た。
そう。
それはあまりにも滑稽だからだ。
自然は美しくあるべくして美しい。
それが好きな理由は私たちには決して再現できないものだから。
共生してきたものとは思えないヒトの踏み込めない領域にて、私たちをヒザマヅカセルからだ。
そして人工物は。
ヒトは完璧を追い求める。安心を、便利さを、幸せを。普遍的なそれらを求めて、ヒトは物を作る。
しかし、必ずそこには何かしらの欠陥が出来る。
そう、それは時間のせいかもしれない。それこそ自然のせいかもしれない。
それでも、何かしら欠陥がでる。
それが滑稽で滑稽で面白くて、私はついつい写真に収めてしまうのだ。
例えばそうだ。
『約118KM先竹島』の看板。
木製で、昔からあるのだろう、殆ど朽ちてしまって、当時では頑張ったのだろう、機械的な字でそれは示されている。
こんな滑稽なものはあるだろうか。
当時では一歩先を見た技術で、ヒトが知り得るのか、その必要があるのかどうかすらもわからない看板を、親切にもこんな山奥にうちつけてある。しかもそれは自然の力によって、完璧なものとして提示されていたにもかかわらず朽ちてしまっているのだ。
私はにやけた顔を戻すことが出来ない。
例えばそう。
玄関先にユーモラスで美しさ、芸術性を求めて作られた、荷物かけがあるとしよう。それは大変評価されているのだろう。これまた木製づくりで、堂々と玄関に立っている。
それが、だ。
見る方向を変えれば髭面のオジサンがのっそりと玄関先に立って外をぼんやり眺めている、そんな風景に見えるのだ。
そのオジサンをヒトビトが賞賛していると考えたら、面白くて仕方がない。
そう、つまりそう言うことなんだ。
自然に対して大きな顔で、大きな態度をとって、共生を取ろうとしてとれないで四苦八苦しているヒトがこうやって頑張った結果、それが全然完ぺきではないものになっている。
私は性格が悪いのかもしれない。
でも、だからこそ、私はもっともっといろんな所へ行きたいとおもうのだ。
そのヒトの不完全さが面白おかしくって
その自然の大きさが畏れ多くて
私はどんどん危険であってもそこへ近づきたくなってしまうのだ。
嘘、偽りなく。
綴。