第142審/承認の欲求①
新章開始だ!
テーマは承認欲求か…。取り立てて副題にするまでもなく、承認欲求は真鍋昌平作品の主人公たち、特に力と金に依存しない側の者たちの基本テーマなわけだが、どういう内容になっていくだろう。
まず、アイドルの推し活をしているふたりの女性が描かれる。チェキを撮るためにいちにちに万単位のお金をつかう。握手券がCDにつく、とかではなく、どうもチェキそのものについて1枚いくらという売り方をしているらしい。
黒い服の子が9万、リボンの服の子が3万ということで、少ないとかバカじゃんとか言ったりして笑い合っている。額は額だが、悲壮感はなく、人生のモチベーションは人それぞれ、健全な感じさえする。
ふいに、なにやってるんだろうとか、彼女いるのかなとか、こういう活動をしているとあたまをよぎるものだし、だいたいはそれを直視しないよう努めるものだが、彼女たちはそうではない。腸のように並ぶ自分たちを腸活じゃんといったり、ふつうに彼女いるでしょといってみたり、きわめて客観的なのだ。SNS時代に入り、じぶんはなにで、どう見られて、社会的にはどういうポジションで、といったセルフイメージの点景化のようなことは、特に若い世代では日常になっているだろう。そういう客観的評価を常に内面化し、ある種の軽さとニヒリズムが同居しているのである。
黒い服の子はふつうに会社員なのだろうか、仕事辞めたいなどという。ライブの日だけ生きてる感じがする、というのも、なんだか“ふつう”の感想だ。次回遠征は福岡、お金稼がなきゃと言ってふたりは別れる。
たぶんこれはそのリボンの子で、彼女もお金は稼がなければならないが、カタギの会社員ではないのかもしれない。街で男をとり、数万稼ぐ。道にはそうした女の子たちが無数に並んでいる。誰もスマホをみて、客をとる、という積極性はない。ただ、いる。
リボンの子はホスト通いもしており、280万も売り掛けがあって、ホストからは催促の電話がきている。とはいえ、少しでも入れられるだけ入れて欲しいという程度の催促である。まだ優しい感じだ。そこにも悲壮感はない。ただ、ちょっとうんざりしているだけだ。金金いわないアイドルの方がいい。
九条、烏丸、薬師前がお茶中だ。裁判が終わったところである。いい結果だったらしく、ふたりとも饒舌だ。そこへ薬師前が別の話題。3年の刑期を終えて出てきた笠置雫から連絡がないというのである。
つづく
ドラマでも役者の好演もあり印象深かった雫が再登場だ。
彼女たちの語り口は興味深い。じぶんのはなしなのに他人事みたいであり、しかし他人事のようで真剣である。ある種アイドルと考えかたが近いようでもある。
SNSが出現して以降の現代人は、個人差はあれ、誰もこうした考えかたを身につけているだろう。主語があり、その主観から述語が生じるのは変わらないとしても、その経過はオミットされ、述語とその結果だけが、巨大なSNS地図のうえにマッピングされる。そしてそれをソーシャルな感性の及ぶ限りで、差異化して、自分というヴィークルが“なに”であるかをつきとめ、言い当てようとする。入力に対してひとつの解をAIが出力する時代の自己認識法なのである。
こうした極端な客観、相対性のなかの存在ということについてぼくは、しずくを主人公にした「消費の産物」で、「家」のない世界での資本主義的プライシングと考えた。
ここで「家」とは「『存在」をなにか別のものに言い換えなくてもよい場所」ということになる。
なんでもないもの、じぶんがなにものであるかを考えずとも存在が許される唯一の場所を「家」だとしたとき、精神的よりどころである家をもたないものは常になにものかであることを自他両面から強いられる。資本主義社会に生き、好むと好まざるとにかかわらず「モノ」を通じた自己価値の創出に親しむ現代人は、誰しも多かれ少なかれその傾向を抱えているだろう。「消費」を通じ、無数の「モノ」をまとうことで、社会的価値をじしんの存在そのものに読み換えるのである。
だから奪われる。存在価値が、ここでは「家」に基づく愛などの情念が生むものではないからだ。
今回も、たんにしずくが登場するからという以上に、「消費の産物」と地続きであることが感じられる。
推し活の子らのことはまだなにもわからないし、SNSのことなども出てきたわけではないが、おそらく、最初に書いたように、ここに見えるものは過度の客観による主語の空洞化と思われる。世代をさかしらに言い立てなくても、誰にもある経験かもしれない。学校や会社などで、じぶんはどのように見られているか、どういう立場か、やはり個人差はあるだろうが、誰しも思い悩むものだ。ただ現代ではSNSがそれを可視化、そして数量化してしまったというちがいはあるだろう。いいね100よりはいいね150のほうが価値がある。そのような他者からの評価を過剰に意識してしまい、内面化してしまう結果、そもそもその評価が対象とする述語を生み出した主語が空洞化してしまうのである。「モノ」で構成される資本主義的有機物と同じく、存在そのものの生々しさを欠いたまま、虚しささえただの言葉として、評価の行き来のなかに埋没させてしまう、既出の述語パターンの組み換えでしかないのである。
「消費の産物」では、九条はしずくの「家」になろうとしているようだった。モノでかざらなくてもよいし、評価の文脈もない、ただいていい場所、それが「家」だ。しずくはそこにすぐ向かうことをよしとしなかったようである。なにものかであることを望むことじたいはきわめて自然でもある。しずくはこの世界で過剰にならずにやっていけるだろうか。
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