第108審/生命の値段⑰
白栖医院長が相楽弁護士を呼び出しているのだが、その場所は彼のいちばん安
らげる場所、例のSMのプレイルームである。さらし台から手と顔だけ出して
蹲踞している感じだ。でもこの状態だと手は自由に出し入れできるような気が
・・・。まあ、じぶんでちょっとたわむれてやってみているだけなんだろう。
ロックしてくれるひとがいないもんな。そうか、SMはひとりでは完結しない
んだな。
近くにはうな重が置いてあり、以前からいっていたのが食べれるようになった
ということがわかる。そのことは相楽も知っていたらしい。
相楽は興味なさそうだが、少し丸くなったように感じられる白栖は、むかしば
なしをはじめる。
不起訴になったら引退するという白栖の、現在の人格は、母を病気でなくして
からできたものらしい。彼が小学生のときに、地域に適切な医療を受けられる
病院がなかったために亡くなってしまったのだ。彼の地物とが鰻の名産地で、
貧しい彼はそれを焼いたにおいをかいだことしかなく、それがいまの鰻への執
着につながっているという。
そのころの記憶が、現在の彼に、誰もが質の高い医療を受けることのできる社
会をつくらせようとした。たしかに、彼の経営している病院は、情報の非対称
性を利用して不必要に通院させたり治療したり、あるいは詐欺まがいのことを
してお金をせしめたりということはあっても、富裕層しかこれないという病院
ではなかった。薄利多売で利益をさらに巨大に病院を保持しようとした結果が
、ああした行動だったということだろう。
相楽が、天国でお母様も・・・みたいな、いってもいわなくてもいいようなこ
とをいっているところに、九条が現れる。この部屋のこの状況でなんか手をふ
きながら出てこないでよ。トイレにいっていただけらしい。鰻の差し入れは、
池尾から聞いた九条が持ってきたものだ。射場と池尾から九条のはなしを聞い
た白栖が、不起訴になったの九条のおかげだと考え、呼び出したのである。
相楽の指示、というか白栖と相楽の当初の考えは、池尾に罪をすべてかぶせよ
うというものだったが、もしそうしていたら、上層部も引き続き疑われること
になっていたと、木馬にのりながら九条がいう。罪としてあつかわれなくても
、管理能力に問題ありとはなるだろう。それでは経営も長続きしない。今回は
池尾がカンモクしたから不起訴になったのだと。それも、20日以内に決定的
な証拠が見つからなかったからだ。見つかっていたら、カンモクしていても意
味はない。結果オーライかもしれないが、そうであってもとりあえずカンモク
して事態を保留することには意味があるのだろう。
そういうわけで白栖は相楽との契約を破棄したい。ひょっとするとそういうこ
とをいわれるかもということを、相楽は予期していたのかもしれない。特に同
様することなく、白栖はもう部外者で、次の経営者が決めることだという。
木馬は座りごこち最悪だが、その痛みが生きてる実感につながる、などと話し
ながら、次期医院長の正孝は九条を嫌っているし、こんな大きな病院の顧問は
荷が重いと九条はいう。そのとおり、じぶんと九条では格が違う、という相楽
のことばを、九条は考え方が違うと言い換える。
「文化的価値を壊してでも利益化する弁護士と、
文化的価値を全力で守る弁護士は全然違う。
まあ世間的に評価されるのは相楽先生なのでしょう」
相楽は別にそのことを否定はしない。拝金主義でけっこうというタイプなのだ
。
相楽が去っていったあとで、白栖が九条に相談があるとする。正孝が急患の手
術で失敗し、患者が亡くなってしまったのだ。激怒した遺族が裁判にすると訴
えてきている、なんとか助けてくれないかと。
つづく
小学生の一件で毛嫌いしつつもどこか考え方に似たところのある正孝が、九条
に救われるという展開になるようである。
九条がかかわる以上、それは法的観点からということになるが、新病院につい
て正孝がどういうつもりでいるのかというのがまったく描かれていないので、
現在正孝が、特に九条(弁護士)とのやりとりでどのような考えになるのかとい
うことも、まったくわからない。新病院はスーパードクター正孝を中心にして
・・・ということで、今回の白栖の言い方からしても、経営者は別にいるよう
である。とすると、医院長ではないのかもしれない。だがこの病院は富裕層を
ターゲットにした、患者を「創出」するイノベーティブ型の病院である。正孝
はそれをどうおもっているのだろうか。
改めて正孝の言い分を読み返してみると、彼の思想の核にあるものは、ひとの
尊厳のようなものだということがわかる。だから、病院経営のセオリーに則っ
た延命措置に反対する。それが直接に安楽死へとつながるものではないが、明
らかにそれを示唆する言動もみられる。だがそれも、命の尊厳のようなものに
向き合っているからこそだ。
これまで、「生命の値段」の登場人物を「対応」型、「創出」型に分類してき
た。正孝はたしかに「対応」型であり、患者を創出するような病院経営のしか
たには不満だった。けれども、そこにはなにか、批判思想的なものも見えた。
たしかな理念があるというより、父親の経営を批判するものとして培われた哲
学があるように見えるのである。
そこで、同じく「対応」型であり、ものの道理として、その結果プライベート
を捨てることになっているという点でもよく似ているものとして、九条と正孝
を比較してきたが、よく読み返すと、正孝はもう少し複雑なもの、自己と患者
との関係性というような構図で、事態を見ているようにもおもわれてくる。な
にかというと、「手術」なのである。彼は、医療の現場において、「手術」を
することによってそこに現れる。極端なことをいえば、「手術」のないところ
に、医者としての正孝は存在しないのである。
彼がプライベートを捨てるとき・・・、描写があったのは奥さんとのデートだ
ったが、あのときも、彼は患者の臓器を見ていたし、運転をめぐるやりとりで
手術にすべてをささげている様子が描かれていた。手術前の看護師との性行為
も、常人には理解できないとしても、彼なりの合理性はあるらしい。つまり、
彼自身がそうおもっていなくても、じっさいにはかなりリスキーな行動なわけ
だが、バレバレでも、そうすると集中力が増して手術が成功するからという、
科学的に意味のあることなのかジンクス的なことなのかはともかくとして、そ
ういう確信があったわけである。
第1審の少年にかんする後悔もそうなのだ。彼を経由して九条を憎んでいるこ
とが事態を分かりにくくさせているが、あのはなしのポイントは、「自分が最
初に少年を見ていたら、(技術的に)足を切断させずに済んだ」ということだっ
たのである。この件で犯人を無罪にした九条を憎むのは、ある種の逆流である
。九条は、この件の登場人物であり、ほんらい罰を受けるべき人物を無罪にし
たものではあるが、彼が手術していれば足を失わずに済んだ、という件とはま
ったく関係がない。だから、いってみれば正孝はここでシステムに憤っている
のだ。
「手術」は、正孝にとって、システムとたたかう手段であり、医者として存在
するときに前提となる条件だ。その「手術」に失敗した。「手術」がなければ
、正孝は医者として存在しない。手術中だけ正孝は正常な医師として患者に関
わるのであり、そのために、彼はプライベートを捨てて、医療機械たろうとす
るのである。その彼が、九条に救われるという状況を認めるのだろうか。
こうした彼の技術信仰のようなものは、安楽死示唆的なものとどうかかわるだ
ろう。ポイントは、たとえば、もう死にかけている人間でも、それが技術で救
うことのできるものなら、正孝のなかではなしは変わってくるのだろうか、と
いうようなことだろう。これは、理知主義的とでもいうか、神の定めた宿命に
逆らう科学信仰とでもいうか、やはり九条と通じ合うぶぶんがある。九条もま
た、「真実」を探究するものではない。彼にはただ、目の前の依頼人しかない
。依頼人の利益をどこまでも追求する。それが、蔵人のような真実探究型には
不誠実にみえるし、相楽のような弁護士にとっては不器用にみえるのである。
だが一貫性にかんしては誰にもくちをはさめないぶぶんはある。この世に「真
実」、イデアの世界というものが、あるのかないのか、そういうことすら九条
には関係がない。あるかないかの「真実」を、仮にねじまげることになっても
、彼は依頼人の利益を優先する。だから、「悪徳弁護士」とも呼ばれる。「有
罪になるべき」は「真実」に属する言説である。しかし、「有罪になるべき」
かどうかというのは、九条には関係がないのだ。
ただ、安楽死示唆の前後の発言からもわかるとおり、正孝は人間の自然な死と
いうようなものを認める立場でもあるようなので、このあたりはもう少し見て
みないとわからない。彼の手術偏執をみると、そこにはたしかに技術信仰が感
じられる。技術がそれを可能とするならば、神の定めた宿命、つまり真実もね
じまげる。死ぬべきだったはずの人間だって復活させる。そういう哲学のよう
なものは、たしかにあるようではある。だがそのいっぽうで、自然な死のよう
な、ものの道理を重んじているぶぶんもある。ここを、彼自身がどのような落
としどころで理解しているのかが、今後のポイントとなるだろう。
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