今週のバキ道/第101話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第101話/“戦闘用”の存在

 

 

 

 

ついに宿禰と勇次郎が接触する!

現れるなり勇次郎は血管ピキピキで宿禰をデブ呼ばわりの不機嫌さである。

宿禰は勇次郎のあまりのインパクトに黙ってしまっている。自身屈指の強者であるが、宿禰はずっと山奥にいたから、あまり他の人間を知らない。つまり、どういうタイプの強者がいるのかということに不案内なのだ。大相撲戦でバキたちと共闘しはしたが、比較的穏やかなメンツばかりでもあった。ファイターには、烈みたいなプライドの高さのものやジャックみたいな執念の持ち主、武蔵のようなずるがしこいタイプなど、さまざまあるわけだが、わけても勇次郎である。勇次郎みたいな強者は、勇次郎しかいないのだ。

汗をたくさんかきながら、後日談として宿禰が語り出す。ということは、この接触で宿禰が死んだり再起不能になってしまうことはないわけだな。

宿禰は勇次郎を「ハブ」にたとえる。獰猛性と凶暴性がそのまま風貌にあらわれている、常に激怒面の生き物である。この場合、ハブが激怒面であるというより、そういう面構えに恐怖や警戒心を覚えることが先で、しだいにそういう表情に意味が加わっていったと考えたほうがよさそうだが、ともかくハブは骨格の時点ですでにハブだ。勇次郎もそうだと。じっさい、勇次郎の骨格は人間のものとはおもえない、獰猛さを表現したようなかたちをしている。そこにはりつく眉や眼差しは非常に攻撃的なものであり、むき出された犬歯はヒト科を超越している。レーシングカーがひとめで「速く走る為の車」だとわかるように、剣がひとめで危険なものだとわかるように、純粋危険存在、戦闘用の存在なのである。

さらに宿禰が付け加えるのは、身長である。勇次郎の身長は推定190センチちょっと。宿禰が210センチ強であるから、20センチくらい彼のほうがでかい。だが、見上げたという。印象がそのまま大きさに反映されるいつものやつだ。この手の感覚は、そのときじっさいに(物理的に)見上げたとか、そういうふうに感じたというより、あとで振り返ってみると「見上げたとしかおもえない」と感じられる、というふうに理解すればよいとおもう。いじめられっこがいじめっこに遭遇して萎縮してしまう感覚、少なくともじぶんの小ささを感じてしまうような状況として、記憶が改竄されてしまうのだ。

 

勇次郎は再び宿禰をデブと呼ぶ。特にそのことには反応せず、宿禰が握手の手を差し出し、「古代相撲 野見宿禰と申します」と、礼儀正しく自己紹介をする。それを受けて勇次郎は、なぜか「デブなワケだ」という。そしてすばやくのばした右手で、宿禰のアゴというか頬というか、顔の下側をつかみ、猛烈なパワーで、250キロの宿禰をひっくり返す。「仕切りなおせ」と。

 

 

 

つづく。

 

 

 

こういっては大相撲メンバーやバキにも申し訳ないんだけど、勇次郎が出てくるとやっぱりちょっと興奮するなあ・・・。やはり段違いの強さなのだな。

 

一連のキレ芸は、いつものことといえばそうだが、興味深いぶぶんも見える。ひとつには、「仕切りなおす」ということだ。

宿禰を投げたあと、勇次郎は「俺を「呼び出せ」などと・・・」といっているので、登場時の血管ピキピキは呼び出されたことによるものと考えてまちがいなさそうである。じっさいに勇次郎に声をかけたのは光成だろう。この勇次郎のセリフからすると、電話だかなんだか知らないが、光成は「宿禰というものに呼び出してくれといわれた」みたいな言い方をしたのだ。光成は、おもしろがって(宿禰なら死んでしまうこともないだろう、くらいのことも踏まえて)、煽るようにそういったにちがいない。大相撲なら呼び出しは進行のような位置づけになるが、そのためにはまず勇次郎が取り組みに組み込まれていなければならない。しかも今回は相手方が指名して足を運ばせたことになる。勇次郎からすればきわめて不自由なはなしだ。

そのいっぽうで、投げに向かった勇次郎の怒りは、それとは別にあるようだ。彼は、宿禰の自己紹介を受けて、宿禰が(勇次郎から見て)「デブ」であることに納得し、キレる。ここで「仕切り直す」という相撲用語がつかわれていることからは、宿禰と接触する、もしくはたたかうこと、すこに相撲的要素が加わることについては、むしろ勇次郎は乗り気であるということが見て取れる。だが、呼び出されたことには見過ごすことができない。そして、このじてんで勇次郎は宿禰を「デブ」と呼んでいる。なにかを予感しているのである。その予感が、宿禰の自己紹介を通じて確信に変わったから、デブで当然、デブなわけだと納得したのである。つまり、ここで勇次郎がキレた理由は、まず「呼び出し」の時点で予感的に感じられたものである。そして、あの自己紹介を経て、確信できるものだったことになるのだ。それはなにか。

 

いくつかアプローチの方法はあるが、もっともシンプルな視点としては、彼が紳士的に段階を踏んでいるということである。要するに、当初彼自身がそうくちにし、ぼくもそのつもりで読んでいた「襲いかかる」という状況に、彼が踏み込まなかったということだ。ぼくはあのときの宿禰のセリフを読んで、てっきり場所だけ聞いて乗り込む、移動中声をかける、最悪寝込みを襲う、みたいなことをするのかと想像したのだ。そして、勇次郎もまた、たたかいたいというのであればそうすべきではないかと考えているのである。そうせず、無礼にも「呼び出し」、丁寧に自己紹介までするそのさま、悪く言えばフットワークの重さの結果が「デブ」ということなのである。

このとき、宿禰は、なにか段取りのようなものにとらわわれた姿を曝していることになる。横綱戦、「廻し」に集約された(ように見えた)大相撲的な規則の体系である。宿禰がやたらとアバラ投げにこだわるのも、そうした規則を否定するためのものと考えることができた。しかしここにおいて、彼はいきなり相手を襲わず、呼び出し、自己紹介して握手をしようと、段取りを踏むのだ。これは、大相撲的なぶぶんがもともとあったとか、対戦によって芽生えたとか、そういうこともあるかもしれないが、ひとつには、会ったこともない、ちょっと前まではなしを聞いても強さを信じられなかったようなものに襲いかかるようなことは、常識的な人間はしないということである。だが、勇次郎は、そしてバキたち地下闘技場戦士たちは、そうした常識的な緊張からは解き放たれたものなのだ。

なぜそれが「デブ」なのかというと、これはふつうに悪口なのであるから、言葉の価値としては続く「タワケ」と大差ないものかもしれないが、これは相撲的な体系に囚われたもののシルエットのことをいっているのかもしれない。力士は、相撲のルールのなかでたたかうときには、あのからだでいることが有利につながるわけである。おなかが出ていればそのぶん相手を押し出し、廻しから遠ざけることができるし、それだけ大きければ重くもなり、攻守両面において高いレベルにいくことができる。だが、非常識なものであるところの勇次郎からすれば、それは体系に囚われていることの表象でしかない。段取りの虜囚、それを示す語が、ここでは「デブ」ということなのではないかと考えられるのだ。

 

さて、以前にも似たような描写があったとおもわれる勇次郎の顔貌についてだ。それはまるでハブのように、ナチュラルに凶暴なかたちをしている。しかし、うえにも書いたように、これはじっさいには逆であろうとおもわれる。もちろん、凶暴さを表面に宿すことによって外敵を追い払うという効果はあるだろう。そしてハブはじっさいに凶暴である。だから、「凶暴さがにじみ出ている」という推論になるわけである。この、凶暴さとそのあらわれの直結は、ピクルの動作をみたものたちが美を感じたときのことを思い出させる。機能美、必要美である。そこには合理性がある。というか、合理性しかない。目的に無関係なものがまったくない、そこに、潔癖性的な「完成」を感じてしまうのだ。意味するものと意味されるものの完全な合致を“感じられる”ということだ。そして、この機能美が過不足なく現出するとき、当然のことながらわたしたちはその「意味」も、表象とともに理解することになる。今回も出てきたように、剣はすぐさまその美しさのなかに「斬る」という動作を添えて寄越すのだ。「斬る」は転じて恐怖や危険といった感覚につながる。かくしてわたしたちはその機能美の向こうに剣に対する恐怖も感じることになるのだ。

だが、ここでいう「目的」というのは、きわめて人間的な発想でもある。生物の目的はたんじゅんには生きのびること、また繁殖することになるだろうが、それも、言葉のない世界を想定したときには意味のない決めつけだ。レーシングカーや剣は人工物であり、人間が人間的な「目的」意識をもってつくったものであるから、人間がそこに目的を見て取り、機能美を感じ取るのは自然でもある。しかし、果たしてわたしたちは、ただ存在しているものから、「存在している」という事実以外ない状況で、機能美、また転じてそれを解釈した恐怖のようなものを、感受することはできるだろうか。ハブや勇次郎が「骨格レベルで」と形容されるのはそういうことだ。ハブが敵に向かって動いているとき、人間はそこに「目的」を見出すことができるから、その動作に美や恐怖をみることはできるかもしれない。しかし、ただ存在しているだけの状況で、わたしたちはそこに「目的」を想定することができるのだろうか。前もってハブがどういう生き物かという情報を受け取ることなしに、じっとしているハブの表情から凶暴さを受け取ることは可能なのだろうか。むろん、生物としてそのほうが有利であるというはなしの流れからすれば、それはありえることだ。カラフルな体色で毒があることを示すカエルのようなものである。だがそれは、食われないためでもある。もっといえば、このカエルはじっさいには毒をもっていなくてもよいわけだ。つまり、ハブが凶暴な見た目をメッセージとして周囲に示すことと、じっさいに凶暴であることは、別の問題なのではないだろうかということなのだ。少なくとも、人間がそこに凶暴さを見るためには、「目的」を見出さなければならない。しかしそれなら、究極的にはそこにはじっさいに凶暴さがなくてもかまわないのである。

たんなる直観にすぎないことでもあったので、いささか乱暴な理路でもあるが、こうしたわけで、「凶暴な内面」がまずあって、それが骨格レベルで具現される、というふうに考えるのは、逆なんじゃないかと考えてしまうわけだ。つまり、まず、なんの意味ももたないハブの顔貌がある(そもそもそこに意味を加えるのは人間しかいない)。そしてハブは凶暴である。だからひとは、ハブのような顔つきを「凶暴である」と解釈するようになったのではないかと。まあ、このことは深入りするような問題でもなく、実はどちらでもいいことだが、より重要なのは、勇次郎と接触したときに、ひとびとがこうした考えかたにたどりつきがちだということのほうだ。それが「戦闘用」ということだ。要するに勇次郎は存在そのものに「目的」があると感じられるのだ。「骨格レベルで~」という話運びには、人間が自然を意味(言葉)で肉付けする以前の世界で、ということが含まれている。生物を「存在」そのものにまでたぐっていくと、「目的」を構築する言葉は、じっさいにはかなり人工物的ないろみを帯びてくることになる。くどいようだが自然界も「目的」を想定しなければ解釈しようもない事物に満ちている。おしべとめしべは求め合うのだ。けれどもそれは、「目的」という語が含む意志のようなものが感じられるということではないわけである。ミツバチが偶然的にそうするように、「結果としてはそうなっている(ものが残っている)」といえがよいのだろうか。しかし、それでもなお、強い意志による「目的」を感じさせる存在、それが勇次郎なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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