今週の九条の大罪/第20審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第20審/家族の距離⑫

 

 

 

 

動画をリークした人物に心当たりがある、ということだった菅原に、山城が電話している。心当たりとは久我のことだったわけだが、拷問で吐くことはなく、菅原は彼を病院送りにして盗聴器を仕掛けることにした。じっさい、久我は壬生側の人間だったわけで、菅原の勘は正しかったことになる。菅原のそばには動画を撮影した本人である若者がおり、どちらかというとそちらのほうを疑うほうが自然なわけだが、彼にそういう胆力があるとは見なかったということだろう。さすが菅原もやり手というわけだ。ただ、どうやって久我が若者から動画を入手したのかというのは気がかりでもある。あの動画を見せるとき、若者はいかにも初めて久我にそれを見せる感じだった。そしてそのまま、現場を菅原におさえられているので、そもそも久我はあの場面では動画を見ることさえなかったのである。もし若者が動画をクラウドに保存していて、それを久我が若者を通じて手に入れたのだとしたら、若者がそのことを言ってしまえば、久我はアウトである。

 

だが、当然のことながらその菅原の半グレ的なふるまいに激怒する。虐待のニュースが流れて、これからマスコミが押し寄せるという状況で、あやしいからといって従業員をボコボコにしたのである。が、すでにマスコミは輝幸のところにやってきているようだ。たぶん同じボーリング場だとおもうが、菅原はそこに隠れているのである。半グレがからんでるということがバレればさらにマスコミはおもしろがって炎上するだろう。いまはここにいるのがよいかもしれない。動画の彼は、デコピンしているところが証拠の動画として残っているだけなので、彼自身にかんしては書類送検で済むということだ。だがそれが施設ぐるみの常態だということになればはなしは別である。そんなものがあるのかどうかわからないが、家守の遺言書偽造にかんする証拠を出してきたら完全にアウトだと山城は唇をかむ。輝興儀は再建不可能、ふたりは有印私文書偽造と背任で逮捕となる。前回書いたように、デコピン動画は遺言書を書く練習をさせていたときに、いうことを聞かなくて撮影されたものだ。もしその前後、あるいは関連した動画が発見されたら、遺言書につながってしまう可能性はある。

 

 

部屋を出てどこかに出かける山城を、市田智子という、毎朝新聞の記者が呼び止める。彼女は単刀直入に、「遺言書偽造の件で」と話しかけてきた。「いま話題の、あなたが顧問をされている輝幸について」ではないのである。内心山城はそうとう焦ったろう。山城はひとまず「誤報を流したら訴える」とだけいってその場を去る。

市田が烏丸と電話ではなしをしている。市田は彼から情報をもらったようだ。正攻法ではどうしようもない九条がとった方法が、市田経由の、マスコミを使った大騒ぎだったということだ。だから遺言書の件も知っていたのである。しかし、それにかんしてはまだ証拠があるわけでもない。ということで、市田はいま動いている。この流れで第2弾を出せたらもっとバズるだろう。

輝幸の前には菅原がいうようにたくさんのカメラが集まっていた。毎朝新聞だけでなく、どこもそんな感じで、競うように情報を集めている。彼らにはいま、「真っ先に情報を手に入れる」という動機があるので、マスコミほんらいの機動力とクソ度胸みたいなものが発揮されるパターンだ。

スピリッツ編集部みたいなどこかの新聞社で、これからどうやって事件を追っていくかが話されている。抜かれた(遅れている)新聞がどうやって追いつくのか、おもしろいところだ。ひとまずは記事をちゃんと読む。施設関係者によると、などのくだりから、嫌気がさしている従業員などを見つけ出して入所者のリストなど手に入れるのだ。ツイッターの愚痴などの検索も使える。介護関係の仕事で愚痴っていて、ニュースが流れた時間以降のリアクションを見たりするのだろう。あの若者のようなタイプであれば、ナチュラルに施設の写真とか載せてたり、あるいは位置情報まるわかりのツイートをしているかもしれない。それから、役所の知り合いがいれば話が早い。

 

 

山城が向かったのは九条の事務所だ。九条は今日は忙しくなるといっていたが、これが本番かもしれない。まどろんでいたブラックサンダーがおきだして山城にほえまくる。

山城はもうしらばっくれはしない。烏丸に椅子を用意させ、どこまで証拠をおさえているのか知らないが、ここで終わりにしないかと、あくまで上から目線で持ちかける。遺産は全部返す、お前の勝ちだと。だから、追及はここまでにしてくれということだ。再起不能になるよりはそのほうがましだということだろう。しかし、菅原は納得するかな。山城が自腹でなんとかするのか・・・?

 

九条はあっさり「わかりました」という。そうくるのがわかっていたみたいだ。その代わり、と続ける。バッジをはずしてくださいと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条はこういう展開になることを予想していたようだ。彼らの仕事を見ていると、エクセルに数字を入れて答えを瞬間的に導くようにして、ありうるパターンを引き出している。しかも九条はもともと山城のところで働いていたものであり、思考法も近いものがあるだろう。山城のエクセルに隠れている数式が九条にはわかるのである。九条じしん、訴訟して、争うレベルの、いわば表層の次元ではできることがないと断言もしていた。そうしてマスコミを利用する方法が出てきたわけだが、同様にして、選択肢の失われた山城はこうして手打ちを持ちかけてくるであろうということは、自明だったのである。

そのうえで、九条は山城に、和解する代わりに弁護士をやめるようにいう。これは、なにを意味するだろうか。山城が悪徳弁護士でいることは、九条に関係ないといえば関係ない。九条にとっては依頼人との関係性や依頼人に対して誠実であることが重要なことであり、遠くで山城が悪いことをしていたとしても、影響はないのだ。

これについては、以降の九条のセリフを待たなければならないが、論点はふたつある。ひとつは、「その代わり」というぶぶんである。つまり、九条はじっさいにはなにとなにを並べて、相殺されるものと考えているのか。もうひとつはうえに書いたこと、なぜ九条が山城のありようにくちを出すのか、それは彼のありようにどのようにかかわるのかということだ。

 

ひとつめの「その代わり」だが、これは、表面的には、すすめようとしていることを停止する代わりに弁護士を辞めろ、ということだ。つまり、辞めないのであればこのはなしはナシ、証拠があるのかないのか、それはわからないが、マスコミ経由の攻撃を続けるということである。だが、それは山城じしんがいうとおりなら「アウト」だ。したがって、いずれにせよ山城は弁護士からは足を洗わなければならないのだ。両者のちがいは、山城じしんの意志によって、経歴に泥をぬることなく静かに退場することになるのかどうかということだ。いずれにせよ山城は弁護士をやめることになる。それが、世間からの非難と法的手続きの結果としてあらわれるものか、表面的には自由意志のもとでなるものか、九条は山城に選ばせようとしているのである。

そして、彼はこうなることを予期していたものとおもわれる。これはたぶん、もうひとりの師匠である流木の、山城を止められるのは九条だけ、という言葉からの流れかとおもわれる。第12審感想ではノブレス・オブリージュを通して考えた。ノブレス・オブリージュは、貴族が平民に対して、持つものが持たざるものに対して背負う義務ということだ。義務といっても、そのような社会的な制約や、人類学的な機能があるということではおそらくない。そうではなくて、これはおそらく、高貴なもの、持つものが、その「高さ」を保持するためにみずからまじないのようにして言い聞かせる心理機制のようなものだ。順序の逆転した存在証明とでもいえばいいだろうか。その殺人を実行していないということを証明するために、時間を逆流して犯行時刻に別のところにいたことにする、みたいなことである。

山城の悪徳弁護士としてのありようは、法に触れてしまうのであればいうまでもないことだが、そうでない場合、もしくはバレていない場合、それをとやかくいうことは誰にもできない。流木のいうように、法は道徳の最小限なのだ。そんな弁護士はとうてい認められない、ということは、法に違わない限り成立しないわけである。もしこの言説が認められるとすれば、それは道徳においてだ。これが、内部の、心理的な慣習のようなものからやってくるのだ。弁護士は、弁護士ではないものたち、つまり潜在的な依頼者との関係において「高さ」を獲得する。そこから稼ぎや名誉なども出てくる。そのうえで、「高さ」の存在証明として、弁護士は事後的に「依頼人に対する誠実さ」というしかたで応えるのだ。

このノブレス・オブリージュの感覚にしたがうのかどうかということは、最終的には自由となる。おそらく、心理的なものなので、感覚そのものは、誰にも宿るものかもしれない。だが無視することはできるし、解釈しなおすことも可能だ。これについては、「法は道徳の最小限」がふたつの方向から読むことができるというふうに考えた。つまり、法を「道徳のいちぶぶん」と見るのか、「限度のある道徳」とみるのか、ということだ。前者は端的に流木や、部分的に九条ということになる。法的な行いは、法治国家においてたまたまそのようにとらえられるだけであり、じっさいには道徳的ふるまいなのだ。後者は山城である。山城は、法の限度を知り尽くし、「ここから先にはいけない」という外郭を視野に含んで、ぎりぎりのところを動き回るわけだ。法的にノーブルなものたちがなにを「持つ」ことによって「高さ」を得るのかといえば、それはこの外郭の位置情報にほかならない。その「じぶんは依頼人より多くを知っている」という事実のうえで、誠実に接するべきであるとするのか、それをアドバンテージとみるのかで、態度が異なってくるわけだ。このどちらを選択するのかが現実には自由であるということが、流木に「山城を止められるのは九条だけ」といわせしめる。山城のふるまいが違法なら(現実には違法だったわけだが)、こういうことにはならない。道徳の範疇で諭す程度のことしかできない問題だから、「止める」ことができるものは限られるわけである。

ではなぜ九条なのかというと、彼が山城の、実務面における「息子」だからである。九条には流木の流れも息づいているので、もはや弁護士としてはまったく別のスタンスになっているが、基本的な思考法や仕事のしかたはかなり似ているものとおもわれる。そのことの帰結が、今回のなめらかな九条の回答につながる。彼は、山城が手打ちを申し出てくることがわかっていた。なぜなら同じ思考法だからである。このことが、現在の両者における差異を明確にするだろう。いま、九条はおそらく証拠をもっている。主導権を握っているのは九条なのだ。だからこそ、彼は山城に選択権を与える。彼はこの瞬間の山城との関係で「持つもの」になっているからだ。山城が現在の状況になっているのは、くりかえすように「持つもの」としての自覚と、そこから心理的にあらわれてくる返礼義務のようなものを欠いているからである。山城にとって依頼人はたんに無知な「低い」ものであろうし、依頼人でなくとも、無力な老人たちは搾取の対象だ。こういう、強者としての自覚なしに、誠実さを欠いていたことが、今日の状況を招いているのだ。それを九条は山城に思い出させなければならない。だから彼は相対的に低い位置に立つ山城に誠実に接するのである。同じ条件で、じぶんのほうが「持っている」のだから、誠実に対応する義務を果たさなければならない、それが流木ラインの九条の考えだ。そして、たんにそう考えているだけでなく、それを山城に見せることで、じっさいにかれをその循環のなかに組み込むのである。

 

こうした意味では、依頼人と弁護士の関係は、ノブレス・オブリージュにかんしていえば親子に似てもいる。仮にすべての人類が法律家になったとすれば、弁護士がもっている法律の知識が「高さ」を生むことはなくなる。これが「持ち物」になるためには、依頼人があらわれてこなくてはならない。といっても、これは傲慢な態度ではない。高貴さからの転用で、便宜的に「高さ」という語を用いているが、これはもっと厳密には差異化のようなことである。ノーベル賞作家だって法的手続きには弁護士を介するのだ。同様の感覚を、九条は山城に抱いているのかもしれない。弁護士が弁護士であるという状況は、非弁護士があらわれて、しかも依頼をしてこなくては成立しない。だから、その相手には誠実に接する。この相似形の感覚を、九条は山城に感じていたのかもしれない。だからこのようにしてスムーズに、じしんの有利を利用するのではなく、相手に選択肢を与えるように使うことができたのだ。

 

ふたつめの、なぜ九条が山城のありようにくちを出すのかということも、これでいちおう解けるだろう。もちろん、現実として「他人ではない」ということはあるわけだが、流木がいうように、山城にノブレス・オブリージュの感覚を思い出させる、もしくは芽生えさせることができるのは、同根で、かついまでは異なった思考をしている九条以外いないのである。

 

 

 

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