今週の九条の大罪/第12審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第12審/家族の距離④

 

 

 

 

九条の事務所に家守華恵という人物が訪ねてきた。お金持ちのようだが、認知症の父親が施設で書かされた遺言によって、遺産4億がひとの手に渡ろうとしているのである。その父親が入居していた施設が、九条が先日紹介してもらった菅原遼馬という男の運営する「輝幸」で、これがもとボスの山城が面倒を見ている会社で、彼も関わっているようなのだった。

 

遺言書を書いている現場だが、ベッドにいる本人がリングノートにほとんど読めない字で書いている。弁護士が同席することで有効ということなのかな、そばには山城がいて、菅原が書いているところをスマホで撮影している。その菅原が代表を務める社団法人「輝與儀」に全財産を寄付するという内容だ。微妙に介護施設の名前とも似ているが、いかにも意味ありげな社名になっている。

 

こういうはなしなので、九条はいちど依頼を断ることになる。家守はすでにいくつか弁護士に断られており、壬生から九条のことを聞いてやってきたようだ。なによりこんなタイプのひとともつながりのある壬生の人脈に驚きだよ。

気分を害した家守は、事務所の場末感をディスりつつ、足を机にのせたままはなしを聞いていることをいう。たしかに、こんなふうにはなしを聞くひとはハリウッド映画でもあまりみないよね。

とりあえず今回はお引取りを願うことになったが、九条的にはまだ微妙に判断しかねているところのようだ。烏丸は、九条が依頼を断るところを初めてみたという。ただでさえ弁護士は村社会で、同業を訴えたがらないところ、山城は知人なのである。利益相反、公正さが損なわれるおそれがあると、九条はいう。

山城も全盛期は人望もあつく、同業者から尊敬されていたという。いまはちがうということだ。有名になるにつれ、本業以外のビジネスにも手を広げていったのだが、そのときに投資で失敗し、反社の手を借りてしまった。以降、片棒を担がされるようになってのだという。

 

どうすべきかわからないところで、九条はもうひとりの師匠、流木のところにやってきた。知り合いの弁護士とやり合うかどうか迷っていると。守秘義務で山城の名前は出さないが、流木にはすぐにわかることだ。そこで、彼はひとり言をはじめる。ドイツの法学者、イェリネクの「法は道徳の最小限」ということばを流木は引く。ここでは駐車禁止スペースのバイクやタバコのポイ捨てが描かれるが、要するに、道徳上ダメでも法律上ではスルーされるようなことが、世の中にはたくさんある。たんにカバーしきれないだけでなく、原理的にいって道徳は「ひとそれぞれ」が通用しうるということもある。法律そのものは非常に強力な装置であり、悪用すれば非道徳にもなるから、道徳の求める秩序に対して法律が無力ということでもないのだが、つきつめると、「依頼者の利益のために努めるのが弁護士」だと流木はいう。誤れば法律はかんたんに身を滅ぼす武器にもなる。そういうところには専門家が必要だ。知識のない依頼者は、法律が行使されるその現場では、弁護士に信頼を置くほかない。こういうところで依頼者をだますのなんてかんたんだ。だからこそ、弁護士はそれをしてはならない。私利私欲のために仕事をするなんてもってのほかだ。山城を止められるのは九条だけだと、流木は最終的に名前まで出して、九条にいうのだった。

 

 

ひとりで温泉につかっている山城が九条からの電話にでる。九条は単刀直入に「家守さんの相続の案件で」と切り込む。山城は、電話を顔からはなし、ぶくぶくとお湯のなかに沈んで現実逃避するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

山城もけっこう重要っぽいキャラなのに、もう使ってしまうのか・・・。ガンガンいくなあ。描けそうなネタすでにいっぱいあるんだろうな。

 

 

今回流木が話していることは、一種のノブレス・オブリージュである。ノーブルは貴族とか高貴さとかを示す語だが、一般にはより広く、持つものが持たざるものに対して背負う義務、というようなこととなるだろう。たとえば端的に貴族は、高貴であるがゆえに、その代償として、そうでないものに尽くす義務があるのだ。これはそのような制約が社会的に現れがちであるとかそういうことではなく、その高貴さを保つための心理機制のようなものであろうと想像できる。つまり、彼が高貴さや高い知性などの、先天的であるかどうかにかかわらず、多くのひとが持たないものをもっている根拠を、事後的に行動によって証明するのである。

流木の山城にかんする評価のポイントは、「持たざるもの」である依頼者をだますなどということは、弁護士にはあってはならないということだ。家守の件を流木が知っているとはおもえないが、山城がそういう感じの、ほめられたものではない姿勢で仕事をしてきたであろうことは、流木でなくても想像することは難しくない。そして、九条は知人とやり合うという言い方をしており、しかもその相談を師匠にまで持ってくるくらいなのだから、自然と山城のことだろうというふうになるのだ。その背中を、流木は押すことになる。「山城を倒す」ことは、弁護士として正しいことだ。だが、なぜ正しいかというと、それは山城が正しくないことをしているからである。さらに流木がつけくわえるのが、山城を止められるのは九条だけだというのがおもしろい。これは、実力的にそうだということではないだろう。山城にとっての九条という固有の価値が、きっとこれを実現させると、流木はいっているのだ。

こうしたわけで、流木は、なんでもないセリフのようだが、実はかなり重要なことをいっていることがわかる。順番に考えていく。

 

まずノブレス・オブリージュである。重要なことは、これが外部からほどこされる制度であるというよりは、ある種の心理的慣例のようなものだということだ。つまり、弁護士が依頼者に尽くす必要はない、と考えるひとがあらわれたとしても、それを否定するものは外部にはないということである。ではどこにあるのかというと、内部である。つまり、倫理とか道徳とかいったことなのだ。

すると、どうなるか。流木は、「法は道徳の最小限」を用いてそれを説明している。究極的には、道徳が「正しい」のか「正しくない」のかを第三者的に決定することは、できないのである。この「外部」にある第三者が、法律にほかならない。法律は、「依頼者の利益のために努めるのが弁護士」とは言ってくれない。では、それが内面で発生するときに、ひとのなかにはなにが起こっているのか。それは、くりかえすように、じしんの存在の根拠、「持っているもの」に関する意味付けなのである。通常、ひとは、長く濃い努力の果てに弁護士になるので、わかりにくいことでもあるが、努力をしてもたどりつけない境地もあるし、またそもそも、「努力をする」ということが一定の資質を要求すると考えれば、やはりこれは少なくとも選択的なものといえないだろうと考えられる。そうして弁護士となったとき、彼は、「弁護士ではないひと」たちと相対的な関係になる。つまり、潜在的な依頼者である。彼は、稼ぎばかりでなく、人権についての透徹した視点や、法的目線で世界を掌握しているという感覚などを通じて、知的な高貴さのようなものを実感することになる。しかしながらここからノブレス・オブリージュに至るまでには、やはり相対化が必要になる。というのは、もし全人類が法律家であったなら、そうした知的高貴は得られないからである。彼は、持たざるものである依頼者の存在によって高貴になる。その高貴さによって得られた特権(稼ぎ、自尊心、知的高度さ)は、根源に依頼者を据えたものなのだ。

だから、特権意識、じぶんがひとより多くのものを持っているという意識を抱えたものは、そのアリバイとして、反作用的に、依頼者の存在を健全に保持しようとすることになる。それがノブレス・オブリージュの正体だろうと考える。

だが、これは内面の規範に過ぎない。自動販売機のしたから500円玉を見つけたとして、そ知らぬ顔でそのままそれを使ってしまったとしても、まず誰にもわからない。だが、その500円玉にはもともと持ち主がいたはずである。持ち主の存在なしで、その500円玉を使うという行為はそもそも成立しなかった。ここで持ち主におもいをはせるのがノブリス・オブリージュの相似形である。けれども、そんなことにはいっさいかまわずそれで高めのドリンクを買うことも、よくはないが、可能であり、それが、山城のありようなのだ。

 

そして、「法は道徳の最小限」である。これはふたつの方向から、まったく逆の意味で解釈することのできる言だ。ひとつは、法は道徳の“部分”であるということだ。つまり、法を遵守するものは、たまたま法治国家においてそれを行使しているに過ぎず、厳密には道徳を遵守しているのである。だが同時に、法を知り尽くしたものにおいては、その限度が問題となる。山城は、法の外郭を熟知している。それが、法と道徳をくっきりと分かち、不道徳を許すのだ。

このふたつの方向性のどちらを選ぶのかは、現実的には自由となる。たとえば、哲学は学問の“部分”である。こうしたとき、その智を愛する者が、どこまでも学問全般のいちぶとして哲学を選択した「学者」としてふるまうか、どこまでが哲学のカバーしうる領域かを熟知したうえで哲学以外(たとえば政治)に知らん振りを決め込む「哲学者」となるのか、好き嫌いはあるとしても、どちらが正しいということはいえないのだ。

 

だが、ここで響くのが、山城を止められるのは九条だけだ、というセリフである。なぜなら、九条は山城の「息子」だからだ。

ノブレス・オブリージュは、自発的なものではあっても、見たように、たとえば無人島に生まれた貴族の息子に自然と発生するものではない。それが高貴であると、位置エネルギー的に「高い」と感じさせる「持たざるもの」が、その意識を育むのである。弁護士と依頼者は、存在としては同時発生的ではあっても、「高い」という意識は、そういう意味では後天的に生じるものなのである。「依頼者」が、「弁護士」を、ノブリスオブリージュを抱えた弁護士を生むのだ。

あるものの存在に、別のあるものの存在が自明に含まれているような状況は、山城と九条の関係性にも見られる。九条は、山城から弁護士業の実務を教わった。それも、いまの九条のふるまいに直結するようなリアリティを伴うものとしてだ。九条が「高さ」を備えるのは、山城が存在するからだ。この意味で、もし九条が、凋落した山城に対してその「高さ」を行使するようなことがあれば、それは山城が依頼者に対してしている行為と同一になるのだ。

もちろん、これはかなり飛躍した考えだろう。「依頼者」は「弁護士」を生むのかもしれないが、それは技術面においてではない。いってみればそれは差異化においてだ。依頼者は、「依頼者ではない」という意味において、「弁護士」を高みに押し上げる。山城はそうではない。九条は、ある意味ではコピーである。だが、九条には流木という法律家の流れも含まれている。それが、彼の内にもノブレス・オブリージュを息づかせている。山城は九条のことを非常に買っているが、それはおそらく、自分のコピーであるという点においてだろう。じっさい、九条には実務的なところがかなり強くある。だがそれだけではない。そこに、差異が生じる。そして、時間の経過とともに、差異は広がっていく。流木的な流れをもたない山城は、凋落していき、ノブレス・オブリージュ的なものからさらに距離をとっていく。結果としては、九条は「山城ではない」「山城とはちがう」という意味において、「高さ」を獲得するのだ。

山城を止められるのは九条だけだ、ということの真意は、ここにある。両者はもともとよく似ていたはずだ。だが、いつのまにかまったくちがう存在になってしまった。たんに九条のなかの流木的流れが脈々と続いているというだけでなく、げんに山城はその視点を欠くがゆえ、落ちぶれているのだ。そのことがつきつけられたとき、「高さ」、もしくは「低さ」という立体的視点が刺激されることになる。山城にとってはたんに依頼者が「低いもの」と認識されているはずだ。だが、ほんらいはそのことによって賦活される「高い」という意識が、返礼義務のような感覚を活性化するはずなのだ。それを、山城にとっては未体験の流れで九条がつきつけることができれば、山城は目を覚ますかもしれない。そのとき、彼は法を有限のものとしてとらえるのではなく、道徳のいちぶと考えることができるようになる。それは彼に内面的な反対給付義務のようなものを呼び起こすはずだ。

 

と、ここまで書いておもったが、山城は最後に電話を耳から離してもいる。つまり、そのはなしは聞きたくない、ということなのだ。ここからは、彼にもある程度自覚はあるということなのではないかということがうかがえる。どの時点でそれが獲得されたかというと、輩に搾取されるようになってからではないかとおもわれる。依頼者をだましてはいけないことなど、実は山城は百も承知なのだ。しかしそれは、職業倫理的な、存在の根拠のレベルまでいくような理解ではない。なぜなら、輩に逆らうことは、職業倫理などといっていられない状況を呼びこむ可能性があり、そもそも生命の保証もあるとは限らないからだ。だからこそ、この仕事は九条のものなのだ。

 

 

 

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