第5審/弱者の一分④
曽我部聡太は後輩の金本に利用されて、犯罪の手伝いをしている。事態が難しいのは、曽我部じしんが、自衛のためにみずから積極性を演じて加担しているということだ。5年前に刑務所に入れられたときも、けっきょくは金本たちのやったことをまるかぶりさせられただけのようで、そのときの弁護士が、九条法律事務所に居候している烏丸である。すさまじい刑務所体験のあと、出所しても、待っていたのは同じ状況である。金本はいちばん逮捕されやすい薬物の運び屋を曽我部にやらせていた。曽我部は、「後輩が困っているから」ということでじしんを納得させてこれを行う。そこへさらに、彼の部屋を、クスリの仕分け部屋に使わせてくれということになったのだった。
プライベートもなにもない。よく知らない男たちがどかどかあがってきて我が物顔で仕事をしている。彼らは曽我部を先輩と呼んでいるが、じっさいに金本とつるんでいるのか、あるいは金本の先輩呼びを借りてそういっているのか、わからないが、いずれにしても年下っぽい。
後輩たちは、郵便物を出せだの、メンチカツ買ってこいだの、パシリあつかいだが、曽我部は配達の仕事がある。これは優先させなければならない、ということで後輩たちは引くが、帰りにビール買ってきてとか、部屋汚いから掃除しといてとか、なかなかすごい。
曽我部は月1万でこれをやらせているらしい。曽我部にも、じぶんが金本にいいように扱われているという自覚はあるようだ。
ここから、わりとおもしろい描写が続く。最初の客は部屋でたむろする三人の女だ。配達品はマリファナである。曽我部は、マリファナの客は幸せそう、と分析する。次の客は、いかにも稼いでそうなスーツの男で、コカインだ。曽我部はついでにじぶんの小便が入った醤油入れみたいなやつをわたす。クラブで突然身体検査とかになったとき用に、金玉の裏に仕込んでおくそうだ。曽我部は、「コカインの客はパリピで遊び人で金持ち」という。次は覚醒剤。廃墟気味の建物の階段、踊り場のところでやりとりをしているのだが、ぜんぜん会話が成り立たない。かきあつめた小銭でなにかを売ったようである。曽我部はこのとき「ウチはシャブは扱ってなくって・・・」といっているのだが、その直後、「覚醒剤の客は年寄りと貧乏人だらけ」といっており、よくわからない。覚醒剤ではなく、べつのなにかを売ったが、客じしんは覚醒剤中毒なので、そういうふうに見ているということだろうか。階段には小さい子どもたちが体育座りをしてじっとしている。
おそらくおもいを言葉にするのがそうとう苦手だろう曽我部だが、あたまのなかでは輪郭があやふやながら考えが浮んでは消え、ぶつかったり調和したりしている。いまのクスリの仕事は、もちろん犯罪ではあるが、買っていく本人は喜んでいるので後味は悪くない。しかし喜んでいるのは本人だけで、周囲の人間は爆弾と暮らしているみたいな気持ちだ。5年前、つまり逮捕された件だろう、そのころはオヤジ狩りをやっていた、というか参加させられていたようだ。遊ぶ金ほしさに金本たちが真面目そうなものを殴って失明させた。この言い方だと、曽我部じしんはその場にはいたものの、まったく加わってはいないようだ。
(ちゃんとした人の周りにはちゃんとした人が集まる。
よくない人間にはよりよくない人間が集まり、
よりよくない空気を撒き散らす)
つまり、物事は、「ちゃんとしていない」や「よくない」が始まってしまった瞬間に、転落を開始するのである。少なくとも曽我部にはその強い実感があるのだ。ほんとうに被害者に許してもらうことなど一生かけてもできない。償いきれない恨みを一生抱えるなら、もちろん刑務所は、いろいろなイジメを受けたし、いやだけど、法律でキッチリ裁いてもらったほうが気が楽だという。開始してしまった「ちゃんとしていない」を、もとに戻したい、清算したい、そうでなければこのままずっと連鎖的に堕ちていくという感覚が、曽我部には強いのである。
烏丸がNPO法人の司法ソーシャルワーク「つぼみ」の代表である薬師前仁美という女性と外で会っている。代表にはなったばかりのようだ。「薬師前」というのも、京都由来、したがって薬師前仁美はレギュラーキャラのようである。
ふたりは「畠山義徳」という男のはなしをする。窃盗でつかまり、烏丸が弁護した人物のようだ。それを、「つぼみ」が支援して訓練施設に入所させた。畠山もまた障害があった。薬師前はお礼に彼がくれたという子どもっぽい絵を烏丸に見せる。これはたぶん、真鍋先生が取材で撮影したほんもののやつっぽいな。ぜんぜんうまくはないが、無秩序さにインパクトもあり、どこか創造性を感じる、ふしぎな絵だ。
障害を抱えながら高齢の父親と暮らしていた畠山だったが、ある日家を追い出されて、ホームレスになった。畠山じしんがかなり高齢なので、その父親もそうとうの年齢かとおもうが、なにがあってそうなったのだろう。たぶん、鰐戸三兄弟とかがやっていたような貧困ビジネスなのだろう、劣悪な環境で仕事をして、畠山は身体を壊した。3ヶ月物置で暮らし、3ヶ月廃車で暮らしたと。冬はトイレの温水でからだを洗っていた。とてつもない暮らしである。
その畠山がなにをしたのかというと、コンビニでお弁当とお茶を盗んだということだ。罪悪感について裁判官に尋ねられ、泥棒は悪いことだが寒い冬の日に温かい飲み物が飲めてほんとうにうれしかった、布団で寝れるなら捕まってもいいとおもったと。胸の痛くなる事件である。悪いことをして刑務所に入ったほうがマシなのだ。いまはシェルターでうまくやっているようである。
薬師前は曽我部の世話もしている。出所時に特別調整が乗らなくて出口支援で工場の仕事と部屋探しをサポートしたと。「特別調整」と「出口支援」がわからなかったので調べたが、曽我部は軽度の知的障害ということである。そうなると、犯した罪それじたいにかんしても、また更正、再犯ということに関しても、杓子定規にやっていてはいけない。そういうわけで、障害者や高齢者の受刑者に関しては、出所後の自立を促すために「特別調整」がかかり、すぐに福祉のサポートが受けられるようになる。自立ができなければ、また同じようなことをしてしまうかもしれないからだ。しかし曽我部はその対象にならず、社会福祉士などが仕事を斡旋したりするのが「出口支援」ということのようだ。ちなみに、検察官が起訴するかどうかの入口の段階で社会福祉士の意見を取り入れることを「入口支援」というそうだ。
だが、曽我部は3ヶ月まえから薬師前と連絡がつかなくなっているという。自宅にいっても留守だと。烏丸は、彼が再び罪を犯しているということを告げる。薬師前は目を見開いて、「なんでよ?」という。最初にこのコマを見たときはたまげたというか、薬師前の人物像がぼくのなかで迷子になったが、しっかり音声を与えたうえでもういちど読むと、こういう驚きかたをするひとはたしかにいるな、というふうになった。そして、このひとは信用できる、という感じもでてきた。強い熱意をもって、曽我部のような人間をサポートしていくことを仕事にしているのである。
烏丸が薬師前を呼び出したのは、手伝ってもらいたいからである。まず曽我部の両親の住所、そして金本から彼を守るためのシェルターの手配だ。といってもこれは烏丸の考えではなく、九条の依頼である。薬師前は九条の名前が出たとたん、表情を曇らせて、なんであんなののとこでいつまでも居候してるのか(大意)という。烏丸は東大法学部を首席で卒業し、誰もがうらやむ弁護士事務所を1年足らずでやめて悪評の九条法律事務所に入った秀才にして変人である。「四大の東村ゆうひ法律事務所」というのがなんのことかわからなかったが、これは「四大法律事務所」のことのようだ。そのなかには「西村あさひ法律事務所」というものがみえるので、そのもじりだろう。所属弁護士502人って、縁がないのでまったく想像できないが、そんな大規模な事務所があるのか・・・。
なんであんな九条なんかのところに?(大意)と問う薬師前に、烏丸は「面白いから」と応えるのだった。
九条のもとには電話がかかってくる。それは、曽我部がコカインと大麻所持で逮捕されたという知らせなのだった。
つづく。
烏丸もいい感じで変人だな。なんか、おもったよりも九条は逐語訳的ではないというか、弁護士の仕事が呼吸のようになっているところがある人物なので、秀才型の烏丸には新鮮なのかもしれない。
曽我部は逮捕されてしまったようだが、大麻・コカイン所持ということなので、どうも今回の配達のその足で逮捕されたようである。そして、彼は法律で裁いてほしいとも考えていたところだ。とすると、自首とはいわないまでも、特に隠そうともせず、身を差し出したのかもしれない。彼は、刑務所で、筆舌に尽くしがたいイジメを受けており、そのこともあってもう刑務所はいやだという気持ちが出ていた。刑務所はいやだから、捕まりたくはない。だが、その感覚を超える罪悪感が、曽我部のなかに芽生えてきているようである。背負いきれない他人の不幸につぶされてしまうのであれば、ひどい目にあうのだとしても、きっちり法のもとに裁かれたいと。
どうしてこういう感想になったのか、ひとつには九条との体験がある。彼は、職質から逃れるために、金本→壬生→九条という経路で、九条に助けてもらった。そのときの鮮やかな経験だ。曽我部からすれば、警察は金本にも匹敵する強者であり、かなわないものである。しかし日本は法治国家であり、国家権力でさえも、その行動を法から逸脱したものとしてとることはできない。その輪郭、細部のくわしい理解、また別々のぶぶんを結びつけることのできる知性があれば、少なくとも法の範疇では、理不尽は行われないのである。もちろん、理不尽もなにも、あのときも曽我部はじっさい大麻をもっていて、つまり「クロ」だったわけなのだが、重要なのは、負のスパイラルにとらわれていた彼が、それとは別の原理で働く、より強力な世の中の構造を体験したということである。これは宗教的な経験とよく似ているかもしれない。理解を超えてはいるが納得がいく、そういう強い原理の存在を、はじめてあの職質のときに確認できたのである。それが、「帰依」のような感覚で、彼をそこへ向かわせた可能性はあるだろう。世界は、強い/弱いだけで解釈されるものではないのだ。
今回の「ちゃんとした人の周りには・・・」のくだりは、ひとの集合という視点で、円の中心に「よくない人間」を想定することになるので、思考停止の自己責任論に向かう、賛成できるかといわれるとちょっと賛成はできない、しかし世の中にはたしかにそういう面があると認めざるを得ない、曽我部の身体を経由した真理として、弱々しく語られている。じぶんがいまこうして犯罪に巻き込まれており、「よくない状況」にあるのは、金本が原因ではあるのだが、じぶんのまわりにその「よくない」金本がくるのは、じぶんが「よくない」人間だからである。げんにちゃんとした人のところにはちゃんとした人が集まっているのだから。こう考えると、けっきょく原因は、じぶんがちゃんとしてない、「よくない」人間だから、ということになる。前回まで曽我部は、金本にある種の正しさを見出すことで自己規定してきた。彼は、ただ道を歩いているだけで、目ざとく彼の弱さを見抜いた不良にからめれてしまうような男だ。だがその事実は、金本の「いじめられっこ」になることによって解消される。債務を一本化するように、攻撃者を金本に集中させるのである。なんのためにそんなことをするのか、そうしても、金本に弱みを握らせてしまうだけであり、問題は解決しないのではないかというと、曽我部的にはそうでもない。彼には「先輩/後輩」の物語がある。金本は基本的に正しい。じぶんが苦しい目にあるのは、金本のせいではなく、じぶんが不出来なせいである。先輩として、そのことは受け容れなければならないし、後輩の配慮がたりなかったとしても我慢しなくてはならないと、こういうような設定をすることが可能になるのである。そうすることで、曽我部の弱者性は金本との関係においてのみあらわれることになるのだ。この思考法と、今回の「よくない人間」のはなしとは、中心にいるのがじぶんであるという点で、同根だ。彼が事実として不出来であったとしても、それはほんらい、金本が正しいことを意味しない。金本が曽我部をいじめていいということにもならない。だが、そのように解釈しなければ、彼は現実を生きることができないほど追い詰められている。金本が正しく、じぶんが間違っているのではなければ、このような理不尽な状況はなぜ生じるのかと、説明がつかないからだ。もちろんそれは、彼が弱いからなのだが、そこに先輩/後輩の物語をかぶせているあたり、その事実に対して心の底からはやはり受け入れ難いものがあるのだろうということはなんとなく感じられる。じぶんが「弱い」ということは事実として知っているし、じぶんで自虐的にくちにしもする。だがそれは、無価値を意味するものではないわけである。これからじぶんはなんにも価値あるものを生産しないし、日々他人に虐げられるだけの無意味な存在ですと、そういうことを言明しているのではないのだ。それは、あくまで金本との関係性においての弱さなのだ。これも彼が攻撃者を金本に統一している理由なのだろう。曽我部の想定する「弱さ」は、金本と比較したときにだけあらわれてくる、ひとつの特殊な状況なのだ。というか、そういうことにしているのである。
「よくない人間」説にかんしても同様に、彼のじぶんの弱者としての存在価値についての理解が見られる。が、そこから発展する景色が、これまでのものとは少し異なっているようである。そこにはもう金本の顔貌そのものはあまり見られない。そこにあるのは、罪の意識である。ここまで断りなく「よくない」ということと「弱い」ということを同一視してきたが、ここで彼がいっていることは、そこまでで語っているこれまでの犯罪とかかわりのあることなのだ。ここでいわれている「よい/わるい」というのは、その後語られる裁判や法律につながるものとして、法律的、もしくは道徳的に、ということなのである。曽我部は、結果として現在よくない人間になっており、その結果としてよくない人間をひきよせている。その根本には、じしんが弱者であることがたしかにある。だが、その弱者性は、彼の自己規定によれば、金本との相対的な関係におけるものだ。だから、このはなしをしているときの金本の存在感は薄い。いってみれば彼はここで、もしかすると生まれてはじめて、法治国家にいきる市民としての意識みたいなものが生じているのかもしれない。それは、九条がもたらした世界の再解釈の可能性が引き出したものだろう。曽我部にとって世界はどこまでも金本の二重アゴで埋め尽くされており、じしんの価値はまず金本の「強い」があったのちに「弱い」として規定されるものだったのだ。そして彼はその負の連鎖から逃れられなかった。だが、これを、ごく稚拙なものではあれ、法的な観点からみたとき、負の連鎖という状況は、今回いわれるような同心円的な、引き寄せの法則として読まれうるのである。それを乗り越えるにはどうしたらいいのか、というところで、行為全体を法にゆだねる、というところにたどりついたのではないだろうか。
どうして曽我部がそこにたどりついたか、それは、罪悪感からということになるのだが、興味深いのはちょっとしたエピソードとして挿入されている畠山の場面にも「罪悪感」を問うところがあるということだ。畠山も泥棒が悪いことだとは理解している。してはいけないともわかっている。だが、温かい飲み物、またその先に理想どおりなら期待できる温かいお布団、こういうものの前には、抑止力をもたないのである。生命の危機に近いところにある人生のつらさ、そういうものの前では、法も、罪悪感も、ずいぶんうっすらと見えにくくなってしまうのだ。そもそも畠山や曽我部の場合では、罪悪感はともかく、遵法意識というものも、優先度が非常に高いということはないようだが、ともあれそういう過酷な状況では、してはいけないとかするべきではないとか、そのようなアウトラインが、よく見えないものになってしまうのである。そこに法や福祉はどう応えているのか、ということが、このシリーズなのだろう。
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