第75話/愚地克巳VS獅子丸
大相撲対地下闘技場、全6試合の内3試合を終え、大相撲は3連敗である。これで大相撲サイドの勝ちはなくなった。このあとに控えている若者3人の天才性を考えると、いよいよ気の毒になってくるが、嵐川はご機嫌斜めである。というより、力士たちを鼓舞するためにそうふるまっているという感じだ。
嵐川は、いま試合を終えたばかりとおもわれる鯱鉾に、「素人の喧嘩自慢に不覚をとっ」て「何か言う事はあるか」という。花山がとてつもない逸材であるということは、試合を見ていて嵐川も感じていた。なのでこれは挑発である。鯱鉾は、どこかチャラいというか、ごにょごにょ言葉を選んでいる感じで、しかしそれに動揺したりとか傷ついたりということはなさそうだ。相手が普通じゃなかったことは誰より鯱鉾が承知していることである。
そこへ、次に試合がひかえている獅子丸が、「素人じゃないッス」と割って入る。花山のことばかりをいっているのではない。相手チームはどの選手も「身技体」備えた玄人集団だと、これ漢字あってるのかな・・・。ふつうは「心技体」だろうし、これじゃ「身」と「体」で意味がかぶっちゃうような・・・。相撲業界の特殊な用法かもしれないけど。
しかし、だとすればどうしたらよいのか。獅子丸は独特のペースで「問題ないッス」という。素人となめることなく、最初から「そういう連中」だと理解してかかっていけば、問題ないと。
そうして試合が始まる。実況のテンションのあがりかたがすごい。友人の腕を我が身とするのは、「友情」か「我が儘」かというのは、意外と重要なポイントかもしれない。克巳がどう割り切っているのかが大事だが。対する獅子丸はなかなかの重量感である。幕内最高優勝三度、ケガさえなければ横綱になっていただろうという、そうとう強い力士のようだ。優勝に種類があるわけでもないだろうに、「最高」とはなんだろうとおもったが、これは「最高の成績をとって優勝」ということ、要するに優勝の慣習的な言い方のようである。そして、彼の特長は角界ナンバー1ともおもわれる「腕力(かいなぢから)」ということだ。たしかに、とてつもない太さの腕だ。とりわけ手首のあたりがすごい。バキでは手を大きく表現することが多いが、それでも限度がある。描写は、手の大きさにリードされるかたちで、太さに限度をもたらす。バキは現実の数字を絵にしているというより、見たものの感じた印象をかたちにしているようなところがあるが、それでも、手の大きさがもたらす制限によって、いかに太く描こうとしても、サイズの小さいものはそのぶん腕も小さくなってしまうのはしかたのないことだ。ここで、武蔵のときからみられたが、手首も非常に太く描くような方法が見られるようになった(とぼくは感じている)。前腕の太さは握力の強さにつながるが、それと巨大な手がほとんど一直線になるような絵だ。獅子丸もそのような腕をしている。
史上最強の関脇説はもはや定説、金星数史上最多はもはや実数、ということだが、実数ってどういうことかな・・・。もはや実数というからには、ひょっとすると虚数ってことだよな。その直前に、「定説」が二度きているので、仮説の、思考の世界のはなしではなくて、じっさいにそうだよ、くらいのことかね。
向き合うふたり。克巳は186.5センチ116キロ。獅子丸は182センチ181キロ。体重差は歴然としているが、克巳には人間レベルを超越したスピードがあるので、それほど問題ではないだろう。どちらも特に相手を意識したふうではなく、ナチュラルなリラックスした状態を保っている。進行役がいつもの「武器の使用以外許されます」を告げ、ふたりは離れていくが、それを受け、獅子丸が手を鳴らして、開いた腕の先をくるくるまわしてみせる。「塵手水」という力士の伝統的所作で、手にはなにももたない、素手だということを示して見せているのである。誰かに指示されたり、注意されたりするまでもなく、力士とは丸腰でたたかいに挑むものなのである。
つづく。
おもったより獅子丸がぜんぜん強そうで安心した。しかし、それでもやっぱり、克巳とは相性が悪いよな・・・。意外と、古典的な、「空手家はつかまれたときどうするか」的な展開になっていくのかもしれない。
あんまり進んでないので深掘りすることも特にない。獅子丸は、相手がふつうではないことを了解したうえで、最初から本気でいくとおもわれるので、大丈夫そうでもあるが、しかしそれは、前の三人もそうちがわなかった。巨鯨はさすがに相手があんなに小さい老人だったので時間はかかったが、すぐに「普通ではない」ことに気がついた。猛剣は油断するとかそういうタイプではない、堤城平みたいな男なので関係ないし、いちばん油断してたのは鯱鉾だろう。しかしそれも、花山のはからいによって、ダメージなしというのはムリにしても、花山のパンチがやはり「普通ではない」ということを了解したうえでふたたび試合を開始するというふうにはなっているのである。この「普通ではない」を了解するタイミングが試合前か試合中かということがどれほど影響を与えるのか、ということが展開のポイントになるだろう。そうおもわれるのは、試合がはじまってからはあまり言われなくなったが、例の相撲の試合時間の短さである。力士はもともと、短い時間にすべての体力を投入するような展開に慣れているのだ。だとすれば、「普通ではない」を試合中に了解するのでは、ふつうのファイターならそれで間に合っても、彼らでは遅いのである。そういう意味では、ようやく獅子丸に至って、彼らは力士の本領を発揮できるかもしれない。
克巳は獅子丸と向き合いながらも上を見上げており、いかにもリラックスした様子だ。おもえばこれは独歩も似たようなことをしていた。このことからは、独歩が力士本人固有のものを見落とさせているのではないかとおもわれた。「力士」という属性とたたかえることそれじたいがすでに大きな喜びでありすぎて、猛剣がどういう力士かあまり目に入っていなかったのだ。じっさい、克巳にもそういうところがあったとしても不思議はない。なにしろ烈を右手に宿した初めての試合なのである。前回のバフチンはなしでいえば、烈との「対話」を、力士を土台にして行おうとしている可能性があるのである。そこまで力士をなめきっているということではなく、克巳の目的のうちのひとつに大きく、そういうことはあると考えられるのだ。
この「対話」に関しては、実況から「友情」か「わがまま」かという興味深い煽りも挿入された。対話原理的にいえば、真の創造性は、二者が交わらないことによってあらわれてくる。言葉というものは、世界にあとからやってきて、意味を分節するものである。誰かがそれを「友情だ」というまで、それは友情にはならない。克巳はけっこう真面目なところもあるので、ひょっとしたらこの件にかんしては葛藤もあったのかもしれないが、それは「友情」でも「わがまま」でも、どちらでもよいことなのかもしれない。そこに、それを説明する言葉のラベルを貼ることには、大して意味はない。いや、無意味というのは言いすぎかもしれない。だが、もし必要なら、その両方のラベルを貼ってしまえばよいのだ。そこに、克巳も想像していないような新しいなにかが到来するはずである。それはきっと、実況がいうように、意味が漂白されたような、透明の景色なのだ。
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