今週のバキ道/第51話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第51話/渋川vs巨鯨

 

 

 

 

 

 

最巨漢の力士と最少の実戦武術家の激突である・・・!

と書くとバキ世界ではいかにも勝敗が決定しているようで、なんとも不思議なものである。

今回は試合開始時からの巨鯨の内面が描かれる。巨鯨にも異種格闘技戦をしたいという欲望はあった。それは、相撲の強さを示すためである。地下闘技場はいちおう非公開なので、テレビで公開されるような試合と比べるとわけがちがってくるが、ここでいわれていることは、相撲以外の格闘技とたたかって、相撲は強いのだということを示したい、という気持ちは以前からあった、ということである。相手が誰でもかまわない。そういうつもりではいた。しかし、それは、たとえばじぶんよりでかかったり、ボクシングやレスリングのチャンピオンだったりでもかまわない、ということであって、まさかじぶんの6分の1の重さの老人が出てくるとはおもってなかったわけである。達人だそうだが、いやいや、6分の1ですよと。もっともな感想である。

とはいえ、風情は横綱のものである。巨鯨もそれを感じ取りはした。しかし、ひょっとすると・・・というふうにはならない。ただ、その自信をこわしてしまうことになるのが心苦しい。おびえてくれているほうがまだやりやすい、ということだ。巨鯨はかがめていた身を起こして歩み寄り、達人のえりをわしづかみする。老人を破壊せず、それでいて相撲の強さを示すようにあっさりと片付ける、こういうシナリオをおそらくは想定して、張り手というかビンタ一発でしとめるつもりなのだ。だがつかんだ瞬間に違和感が生じる。のちのコメントで、当初それを大関は貧血と認識したらしいことがわかる。足のちからがぬけたように感じたのだ。それはつもり、おもいもよらないあの重量のことである。

これは貧血ではなく「術」である。いちおう、巨鯨もそこまでにはたどりついた。そこで予定通り張り手をかます。しかしそれは、当初考えていたような、「余裕を見せつつ圧勝」のシナリオによるものではなかった。「緊急避難」だったと。瞬間的にちからが抜けていくような感覚を覚え、まずいと感じ、とっさに手が出た、ということだ。

ところが、それこそが、達人の待っていた一手だった。いまだ渋川剛気はえりをつかむ巨鯨の左手に右手を添えているだけである。しかし、その位置関係のまま、張り手のちからを回転力に変え、290キロの男を180度転ばせてしまうのであった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

これは・・・終わりじゃないよな・・・?たぶん巨鯨は顔から地面につっこんでぶっ倒れてしまうだろうけど、力士がそんなことで失神するともおもえない。地下闘技場は固形物が混ざっているといっても砂だし、土俵よりやわらかいだろう。というか、これで終わらないでくれ・・・!

 

前回の続きになるが、渋川剛気がもし合気の限界に触れることになるとしたら、それはどういう状況だろうか。彼は、ただ立っているだけの状態からも複雑なちからの働きを引き出し、じゃっかんの操作でそれを相殺するなり反転するなりしてしまう。だから、たとえば相手が重量を感じて、それに抗って力強くスクワット的な動きに入っても意味がない。スクワット的な動作は、たんじゅんには上方に向けてひとつの大きなちからが働いているだけのようでもあるが、じっさいには重なり合う筋肉の機能的な働きが情報に収斂しているのだ。その微細な反応を個別にさばいて、求めるかたちにしてしまう、それが渋川剛気の技なのである。とするなら、技をかけられている側が、たとえばスクワット的な動きにかんして、その複雑な筋肉の働きを、渋川剛気が感じ取っているのと同じレベルで理解したときに、抵抗できる可能性が出てくる。おもえば、渋川剛気じしんが、オリバと対したときなどに、筋肉の量や大きさは無関係であるというようなことをいっていたのである。

だとすると、もしここから巨鯨がなんらかの、逆転とはいわないまでもいいところをみせるようなことがあるとしたら、それは、彼が大きいがゆえに見ている景色において、そうした悟りを獲得した場合に限ることになる。つまり、誰もが無意識に協力させている無数の筋肉の動きを、巨鯨が、大きいがゆえに発見する、そういう状況が出てくれば、ここで渋川の相手に巨鯨がすえられたことの意味も出てくるのである。しかしそれを巨鯨に期待できるだろうか・・・。これは、いまさらだがミスマッチだったかもしれない。というのは、巨鯨が強い力士であることはまちがいないとしても、たとえば反射神経とか、技のセンスとかと同様に、それは、彼が「大きい」という点で他よりまさっているからである。力士としてもそれを生かす方向に練ってきたはずだ。国力でいえば、どこからともなく石油が大量に出てくるような国なのである。そういう国は、石油をどのようにさばいていくことが安全かつ自国の利益を最大にするかという方向に政策を決めていくはずなのだ。しかしながら、渋川剛気と同等の洞察力は、むしろ持たざるもののほうが期待できるのである。あるものでなんとかしなければならない状況のほうが、そこにある自然の複雑なシステムを悟る可能性が高いのではないか。まあ、そういうところこそが、いまバキたちが求めている相撲の聖性というものかもしれないが。

 

もともと柔道をやっていた渋川は、敗北とともに合気の技を体感した。それはおそらく、彼にとってトラウマ的に身体の枠組みを意識させたはずである。合気は、ただ突っ立っているだけのなかに複雑なちからのからみあいを見出す。彼は、柔道を修めながら、そこには無自覚でいた。それがおそらく渋川の武道的な原体験となっており、それがゆえ、前回あのような回想がはさまれた。どういうことかというと、合気の真髄というか、少なくとも渋川が合気の道に期待しているものは、いまとらえている身体の枠組みの、“外側”なのである。柔道時代にはまだ彼ははただ突っ立っていた。それが、合気の体験とともにクリアに、鮮明に、今回の巨鯨の表皮をはう毛細血管のようなちからの働きを直覚できるようになった。だがその経験は、その把握の感覚もまた、柔道時代と変わらずある種の見落としを含んでいるのではないか、ということである。それが今回渋川がいっていた「合気の限界」ということである。彼にとって武術の稽古は、メガネの度数をあげていくような行為なわけである。合気を通して、彼は、ほかのものが認識できない世界を手に入れることができた。しかし、その経験が同時に、クリアに見えるようになったその世界を疑わせるのである。この手のマトリョーシカ的構造の説明をするとき、いつもわかりやすい例として出すのだが、映画「マトリックス」と同じ構造である。仮想現実のなかで眠っていたネオは、モーフィアスたちに起こされて、荒れ果てた現実世界に降り立って機械とたたかうことになる。だが、このことは同時に、その荒れ果てた世界もまた仮想現実である可能性を呼んでしまう、少なくとも否定できなくしてしまうのである。

 

だが、じっさいには、渋川剛気はほとんど無双の強さである。これが、むしろ不安をかきたてるのかもしれない。この世にはまだじぶんが把握しきれていない(比喩的な意味での)ちからの働きがあるはずである。合気にも「限界」があるはずだと。彼はそれにぶつかりたいのである。相撲の聖性は、それに応えることができるだろうか。こうなると、渋川の相手は横綱か炎がよかったかなという気もする・・・。

 

 

 

 

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