第49話/合気との出会い
やっとやっと、大相撲対地下闘技場の試合が始まる!まずは力士界最大最重量の巨鯨と渋川剛気である。
というところで、渋川先生の回想シーンだ。だが、これは、“いい回想”である。渋川剛気の過去というのは、なにかとわからないぶぶんが多い。モデルの塩田剛三の過去とごっちゃになってしまっているぶぶんもある。人物としても魅力があるので、過去編は望むところである。
テーマは合気との出会いである。ところで、ぼくのパソコンは「あいき」と入力してもすぐ「合気」と出てくれない。たしか前のパソコンもそうだったとおもう。いつも「合気道」と入力してから「道」を消している(辞書登録しろよというはなしだが)。「合気道」という固有名詞がまず成立し、そののちに「合気」が独立したとか、そんなことだろうかとおもっていたが、「あいき」ということばじたいは合気道の創始者・植芝盛平より以前から「相気」という字で存在していたようである。渋川剛気の武術は明らかに合気道ではあるが、これまで作中で「合気道」という語が使われたことはあっただろうか。初登場時の渋川先生も「渋川流柔術」とアナウンスされている。「合気道」は固有名詞で、たとえば空手とか柔道のような一般名詞ではなく、植芝盛平がつくったそれを直接さす、というようなことで、なにかオトナのやりとりでもあったのかもしれない。
さて、渋川剛気が若いころのはなしであるから、昭和である。連載開始時であったら、へたすると戦前ということになるかもしれないが、バキ世界は濃密な時間経過をする世界であるから、おそらくもっと先のことである。のちに渋川の師匠となる御子柴喜平が道場で演武を披露しているところだ。放り投げた大柄な男の手首を極め、背中にあぐらをかいてしまう。この時点で御子柴は相手のどのぶぶんもつかんではいないが、そうとうに力持ちであるとおもわれる男がいくら暴れても、御子柴をどかすことができない。絶妙のタイミングで重心を移し、動作を殺しているのである。
その現場には若き渋川もいた。15、6歳ということである。チビではあるが、どうやらかなり鍛えこんであるらしく、腕や首は太く、60キロくらいあったらしい。柔道では全国区だったと。要は、腕っ節には自信のある若者で、しかもそれは柔道の技術に裏打ちされたものだったのだ。
柔道家なので、投げのなんたるかは理解している。あんなふうにひとが投げられるわけがない、インチキだというはなしだ。合気道の演武は文字通り「投げられている」という。なぜなら、そのようにして逃げて、受身をとらないと、ケガをしてしまうからだと、どこかで読んだことがある。むろん例外もあるだろうが、相手にダメージを与えるというよりは制圧することが目的であるような技術では、回転してみずから跳躍することは、たしかに合理的なのである。
そこへメガネをかけた別の弟子がやってきて、失礼だろという。そのメガネの足をはらい、渋川は、年寄り相手にあんなふうに派手に飛んでみせて、むしろお前らのほうが失礼だろというのだ。
渋川が接近して御子柴のそでとえりをとる。御子柴はぼうっと待っているのだから、不気味ではあるが、渋川よりもさらに小さい年寄りである、まさかやられてしまうとはおもってもいないようである。
渋川は、来る日も来る日ももみあっているおれらを投げてみろという。彼を動かせているのはひとえに柔道家である矜持なのだ。毎日毎日投げばっかりやってて、その底から天蓋まで体感している身として、このような魔法はとうてい認められないのである。
しかし、御子柴はホンモノである。そっと渋川の左手に手を添えただけで、おそろしい重量感が渋川を襲う。巨大な氷嚢をのせられたような、やわらかさと芯の感じられるたしかな重量感である。ぜんぜん、どういう原理でそうなっているのか、「揉み合い」に長けている彼にはさっぱりわからない。そして、次の瞬間には逆にからだが宙を舞う。回転した渋川は、容赦なく顔面から叩きつけられる。失神・失禁までしてしまう、決定的な敗北なのであった。
つづく。
からだが重量感失って浮き、回転させられる。これは、冒頭で大柄な男がやられていたことと同様である。そのまま地面に突っ込んでいたら、渋川のようになる。これを回避するのが、あの大袈裟な跳躍と、受け身なのだ。
渋川がもと柔道出身なのは、死刑囚篇のイベント的な対オリバ戦でもわずかに語られていた。モデルの塩田剛三も柔道出身で、同様に、御子柴のモデルである植柴盛平にやられて、入門した。
合気道はその大袈裟な受け身もあって、マユツバものと受け取られがちである。武道をどのように受け取るか、なんのために修養するか、という視点でも受け取り方はちがってくるが、バキ世界のような、シンプルな「強くなりたい」という動機からすると、なかなか、受け入れ難いものもあるようである。じっさい、ニセモノの合気道もないではないのだろう。ネットの世界では非常に評判が悪いが、ぼくは青春時代、小島一志という格闘ライターからかなり多くのことを教わった。極真会館とはかなりいろいろもめていて、くわしくはいくらでもネットに情報があるから見てもらえればよいが、ともあれ、たとえば格闘技に普遍性を求める点など、ぼくは小島一志の影響をかなり受けているといっていい。
塩田剛三にかんしては、ぼくはこの小島一志の経験に多くを負っている。『最強格闘技論』という本だった。細かいところは手元に本がないうえにはるかむかしのことでもあるので、ぼくなりに多少脚色すると、格闘技界にはいろいろなニセモノがいる。そういう人物を、作者はたくさん見てきた。たとえば拳法の道場などに出かけて、作者が極真会館の有段者だということを知ると必ず、「右の拳で突いてきなさい」というようなことをいうのである。どこから攻撃がくるかわかっていたら、そりゃ多少訓練しているものなら誰だって攻略できるだろう。そういう人間を、たくさん見てきたし、見抜いてきた。塩田剛三に会う日も、インチキ合気道をどうやって暴いてやろうかというようなつもりで乗り込んだそうである。ところが、塩田剛三は、ちょっと組手をするかということになっても、当然、指定などしてこない。好きにかかってこいという。そして当然、なんにも攻撃が当たらない。気づくと背後に回られて、背中に電流のような痛みが走る。当初はさすがにご老体ということで手加減していた作者も、呼吸をあらげて本気でかかっていくようになる。しかし、塩田剛三は、あの調子で、ホイホイという感じで、作者を投げてしまう。次には木刀をもってきて、好きにしろという。当然当たらない。しまいには触れただけで痛みを感じるようになってしまったと。作家なので、ある程度はなしは盛っている可能性もあるうえ、ぼくも記憶を捏造しているかもしれない。だが、のちにネットで動画など見れるようになって、やっぱりこの先生は「ホンモノ」だったのだなと、思わずにはいられないわけである。
修得の難しさ、またかけるべき時間の長さ等が、合気道を神秘にしているぶぶんはある。同時に、そのぶんそれがホンモノかニセモノか素人にはわかりようがないという点で、インチキを横行させるというぶぶんも、ないではないかもしれない。個人的にはたとえば弟子の大袈裟な跳躍が仮に施術者の実力には見合わないパフォーマンス的なものであったとしても、武術とか学術というものは敬意のなかに育まれるものであるから、一概に否とはできないと考える。それじゃ宗教と同じじゃないかといわれるかもしれないが、まあ、じっさいそうだろう。なにかを信じて、尊敬して、そこに近づこうとするときにひとは大きくなる。その信用の感覚が宗教心と同じであるなら、どの格闘技を選ぶかということは、ある種の告白でもあるのだ。そういう意味では、ぼくだって空手教と自重トレ教に入っているわけである。信じられる道だから。
ともあれ、そうはいっても、バキ世界的なシリアスさと、いまこの瞬間を乗り切るというリアリズム的視点からすると、合気道の遠さは神秘なのである。渋川が地下闘技場に降臨したとき、実況の男は達人を「保護されている」という有名な形容句で示した。要は、実戦の強さをたしかめる現場に、神秘のベールで守られたまま、合気のものたちは出てこなかったと、こういうことをいっているわけである。しかしそれはいまおもうとちょっとちがうかなという気がする。彼らはただ、その困難な道のりを、ふさわしい方法で歩んでいるだけである。どうなれば正解なのか、極めたことになるのか、それさえ、わかるものはごく一握りであり、大半の修業者は、左見右見迷いながら、それでもやはりその場所に戻ってきて、修業を続けるのだ。地下闘技場の現場はそれじたい単独で成立している文脈であって、合気道を極めるとか極めないとかいった次元とは、またちがうところに属しているわけである。
しかし、渋川剛気はそうではなかった。これは、今回描かれた、もともともっていた闘争心のようなものがそうさせたのだろう。「保護されている」といわれたら、その喧嘩を買ってしまうのが渋川先生なのである。その意味では、やっぱり彼も「強いんだ星人」の一員である。合気道は相手を制圧する護身の技術、したがって、極めた先には、例の「危うきに近寄れず」状態が発動する。塩田剛三においては、究極の護身として、敵と友達になっちゃう、ということがあったが、渋川剛気においては、身の危険が迫るとき、幻覚が押し寄せて、その場に行かせないよう、からだが仕向けてくるのである。これは文字通り護身を極めたといっていいだろう。渋川はもう、誰か、あるいはなにかに傷つけられることはぜったいになくなった。だが、強くあることを求めずにはいられない本質が、彼をその先にすすませてしまうのである。これは、合気道的には未熟ということになりはしないだろうか。つきつめるとこの視点があらわれてくるのである。そもそも、護身という視点からすれば、渋川は最大トーナメントにだって出場するべきではなかった。ジャック戦で死んでいた可能性だってあったのである。護身が極められているのかたしかめる、ということであるなら、長寿ということ以外には方法はない。たぶん、根がファイターな渋川は、そういうところがもやもやしてしまうのである。
こう考えると、今回の相撲戦で合気がためされる、というあの言の意味がうっすら見えてくる。つまり、護身としてではなく、格闘技術としての合気、ということなのである。今回渋川は巨鯨に対して特に幻覚を見てはいないようである。それは、相手が脅威ではないという可能性もあるが、相撲の聖性が影響していないとも限らない。というより、たぶん影響している。力士は、邪悪なものではないし、渋川の生命を積極的に危うくするようなものではないのである。
おもえばこれまで、バキたちは、「いのちのやりとり」にこだわりすぎていたのではないだろうか。骨が折れるかもしれない、半身不随になるかもしれない、死ぬかもしれないと、可能性を極限まで拡張させた世界で彼らはたたかってきたが、それはそのまま、選択肢の増加を意味しなかった。ボクシングがパンチの技術に優れているのは、制約を強く絞ったからである。そういう意味で、力士という、聖性を帯びた相手と、「相撲」を行うという今回のイベントの中立性は、注目すべきポイントかもしれない。空手の選手が試合に出て稽古の成果を試す、そういう当たり前のことが、「いのちのやりとり」が日常のバキたちには珍しい。渋川先生においてもそうである。今回の試合では、渋川先生の生き方としての合気ではなく、もうひとつ、通常行われるのとは逆に次元を落として、技術としての合気が見れるのかもしれない。
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