今週のバキ道/第44話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第44話/繋ぎ

 

 

 

 

 

ようやく・・・というと力士たちに失礼かもしれないが、ようやく、大相撲サイドの力試しが終了し、彼らがホンモノだということがわかったところで、バキサイドである。光成の家にバキ、独歩、渋川、それに金竜山がきている。

 

力士たちは総合格闘家たちを秒殺した。なかには獅子丸のように危なかったものもいたし、鯱鉾のように試合っぽい打撃戦になったものもあったが、まあ秒殺といってもいいだろう。相撲を買っている独歩からすればごく自然な結果である。光成としては、並の格闘家を呼んだつもりはなかったようだ。彼らは彼らで未来のバキ、とはいわないまでも、加藤レベルくらいにはなるかもしれない逸材たちだったのだろう。渋川剛気はニタニタしている。

金竜山が独歩たちの意志を確認する。克巳と花山の姿が見えないので、別にここでいやだといったからといって無効になるとかそういう効力はないとはおもうので、なんとなくノリでいっている感じだろう。大相撲は聞いたとおりじっさい強いと。「天下の大相撲に一泡吹かせる!」と金竜山はいう。彼は、業界では異端児だったので、じぶんをはじき出した協会への対抗心は、たしかにあるのだろうが、この流れにはもっと人間らしさも感じる。つまり、金竜山はたぶん、無意識に大相撲の強さを誇っているのである。ベジータがカカロットをついうっかり遠まわしに誉めてしまうようなものだ。

しかしバキはその言葉の使い方に引っかかる。大相撲と戦えるということそれじたいには感謝している。けれども、彼らは天才集団である。天才というと能力が脳内に宿されているような感じがしてしまうが、ようは、天から授かったギフトとしての才能ということで、たとえば、たんじゅんに彼らはでかいわけである。そんな彼らに許される言い方ではないし、金竜山じしんが横綱を張った大相撲はそんなにヤワでもないだろうと、なにか、あっちも立ててこっちも立てる大人な発言である。

 

ところで、ずっとにやにやしている渋川に金竜山が話しかける。達人はうれしいのである。小さいものが大きいものに勝つということを探究した、チビの情熱が生んだのが合気だと。それを実戦レベルで使用するほとんど唯一の存在である達人もまた天才である。彼が特別であるとすれば、それは、合気が合気として役割をまっとうしたときだ。力士という「力」の象徴は、その相手にぴったりなのである。

達人だけではない、独歩やバキも、彼らがおのおの天から授かった「なにか」にかんして試されることになる。力士とは彼らにとってそういう存在なのだ。

 

 

いきなり40日前である。鎬紅葉のところにドクター梅澤があらわれた。ドリアンに手首を切られて拳をまるごと落としてしまった独歩が、「繋ぎ」を依頼した闇医者である。ふだんは歌舞伎町でヤクザの治療をしているようだ。「繋ぎ」にかんしてはあの紅葉も一目おいていて、じっさい、独歩の拳をまったくそのままにくっつけたのだから、腕はたしかである。

で、なにをつなぐのかというと、もちろん克巳と烈である。片腕というオリジナルを探究していた克巳は、光成の提案に迷っているようにも見えたが、繋ぐ決意をしたようだ。烈の右腕はきれいに保存されている。こういうふうに筋肉を途中で切っちゃうと、形変わっちゃったりしないのかな。

他人の腕である。拒絶反応とかもあるだろうし、細かい骨や肉や神経のありかたもまったく異なっているだろう。が、繋ぐのは問題ないようだ。太い血管、細い血管、神経、皮膚の順に繋いでいく。縫合が上手くいったかどうかは、回復までの「時間」が教えてくれるという。機能が伴う、つまり動き出したらそれで「繋ぎ」は完了。空手ができるかどうかは克巳しだい。というわけで、克巳の右手には親友でありライバルであり師匠でもあった烈が宿ることになったのである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

これでもう烈の復活は完全になくなってしまったわけで、そこは複雑な気分である。片腕というオリジナルも未完成となった。とはいえ、これはこれで新しい展開も期待できる。この姿はドイルにも見せてあげたいが、彼はもう目も耳もだめなんだっけ。

 

 

梅澤先生のセリフでわからないのが一箇所、「機能までの日数が俺の半分なら合格だ」ということだ。縫合がうまくいったかどうか、つまり合否は、回復までかかった時間が決めるという。仮に合否ラインを20日だとして、動き出すまでに30日かかっちゃうようだと不合格、ちょっと失敗ということになるし、10日で動き出したら合格だと。これは、2通りの読み方ができる、とおもう。ひとつは、梅澤がじぶんに厳しいドクターだとして、つねにじぶんのオペを不合格だととらえているパターンである。たとえば今回、克巳は回復までに40日かかったとする。それは、いずれにしても、梅澤にとっては不合格である。もっと短くできたはずだと。そういうところで、俺なんかの半分で済めば合格だと、こういうふうにいっているのである。

もうひとつは、ちょっと口語的にとらえてみて、じゃっかん幼稚な言い方になるが、これを「回復パワー」のようなものだととらえるものである。梅澤の回復パワーをもってすれば、腕は20日で動き出す。ほかの医師ではそこまでいかないだろう。せいぜい40日くらいで動き出す感じかもしれない。そのとき、その医師の回復パワーは梅澤の半分である。こういう言い方も、そんなに不自然ではない。短距離走の選手と凡人が駅まで競走するとして、ちょうど実力が2対1だとする。選手は5分で駅に着くが、凡人は10分かかる。選手が駅に着いたとき、凡人は半分の地点にいる。この凡人の足の速さをちょうど合格ラインとしたとき、「ぼくの半分くらいの(地点に到達する程度の速さがもたらした)時間なら、まあ合格じゃない」というような言い方をすることは・・・あるのだッッ。

 

克巳の克服すべきことは例の真マッハである。威力のほどはよくわからないが、派手さと華では作中屈指といってもいい。ただ難点は、使うたびにその箇所が爆ぜることである。練習することすらできない、このような技術を、「技」とは呼べない。克巳はこれを反復可能なものにしなくてはならない。そして、その重みは、敬愛するものの腕になることで、さらに増すだろう。烈からもらった腕を壊してしまうわけにはいかないのだ。まあ、そこまで差し迫った状況をもたらす相手はたぶん大相撲側にはいないとおもうけど・・・。

 

 

さて、今回のポイントは、「天才」のくだりである。力士たちは天才集団である。それは、バキみたいに技の修得や応用にかんして天才的であるとかそういうこととはまたちがって、まず大きいことだ。むろん、炎のような例外もいることにはいるが、彼もまた、けっきょくは大きいことを求められて、それを実現していた。この力士の「天才」をすべて「大きい」にまとめることはできないが、たとえば渋川剛気と向かい合わせたときには、「天才」は「大きい」とほぼ等価になる。なぜなら、渋川の「天才」が、小さいがゆえに探究され、極められた「合気」だからである。「天才」とは、天から授かったギフト、という意味だろうが、こうしてみると、これはある種の「個性」のことであろうと考えられる。一般的には、力士は「大きい」。だから、「小さい」ことを個性とする渋川は、彼らと対峙したときにより映えることになるし、もっといえば試されるのである。

だが「天才」が試されるのは独歩やバキも同じようだ。バキは小さいけど、独歩は別に小柄というタイプではない。つまり、彼のいう「天才」は、「大きい」に対峙する「小さい」にあるのではない。ではなにかというと、それはたたかってみないと出てこないというかわからないが、ここでいわれていることは、独歩やバキの「天才」、つまり「個性」、彼しかもっていない天から授かったものが、力士と対峙したときに浮き彫りになる、ということなのである。ひとは誰しも、そのひとをそのひとたらしめるなにかに突き動かされている。そうでなければ、わたしたちの意識は、電車で隣り合った知らないひとと区別がつかないかもしれない。仕事で疲れて帰ってきて、就寝して、起きて、また会社に向かって、前日の仕事の続きをするとき、わたしたちは、じぶんが「昨日」の記憶のなかにいるじぶんと、いまのじぶんが、同一人物であるということを、少しも疑わないだろう。これを自己同一性という。わたしたちにはまず、その「疑うことができない」という実感だけが先に立っている。根拠は、実生活ではあまり問題ではないのだ。それはバキや独歩も同じである。ところが、現実には、バキは独歩ではないし、独歩はバキではない。別人である。ここで仮想される根拠が、ここでいう「天才」のことではないかと推測できるのである。

 

ではなぜ、相撲が、彼らの自己同一性の根拠を明らかにするのか。渋川では、力士の大きさが、彼の小ささをつきつけ、それゆえに強いという、達人のオリジナリティを示すことになる。とすれば、バキでは、彼における「天才」とは対極にあるなにかが力士のなかにあって、対面したときに、それが相対的に浮き彫りになる、というはなしなる。これが勇次郎だと、前に立つ相手はすべて「彼より弱いもの」としてひとまとめになってしまう。勇次郎は、全知全能に近い存在として、相手の交換可能性をつきつける。力士とは逆に、相手がどこにでもいるかわりのきくものだと、意地悪にも告げてくるのである(だから敗北して格闘技から離れてしまうものもいる)。力士は、相手に逆に交感不可能性を教える。それは、おそらく彼らが、様式美に染まりつつも、古代相撲の血統であることはまちがいがないからではないか。つまり、力士たちは、バキたちとは別の育ち方をした、遠い親戚なのだ。ちょうどパラレルワールドのように、まったく違う方法で成長を続けていったのが大相撲であるとするなら、バキたちは、じぶんの鏡の姿をのぞきこむようにして、力士のなかにじぶんを発見することができるのかもしれない。

 

 

 

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