今週のバキ道/第36話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第36話/烈との共闘

 

 

 

 

 

 

久々のバキ道は夢枕獏先生のアイデアからはじまります。

タイミング的には宿禰との対面の前なのか後なのか・・・どちらともとれそうだが、あのときの自信ありげな克巳を思い返すと、なんとなく前のような気はする。光成に連れられて克巳がやってきたのは、武蔵が眠らされているあのカプセルみたいなものの前だ。もしこれがクローンなら技術的には同一であるし、そうでなくても施設的にはそろっているだろうから、じっさいここはスカイツリーの地下なのかもしれない。

克巳のうしろには独歩もいる。独歩は、すでに光成に相談を持ちかけられるかなにかして、事情を知っているようだ。カプセルのなかに浮かぶのは烈海王の右腕なのである。

いわれなくてもそれが敬愛する烈のものだということはわかると、克巳はいう。ってことは、これはクローンではなくて、ほんものの烈の右腕ということになるのかな。クローンだとさすがに拳ダコとか傷までは復元できないし、ひとめでわかる、というほど似ることもないだろう。あとの光成の言い方からしても、ほんものの右腕、火葬される前に、克巳のためにとってあった烈の右腕ということのようだ。

険しい表情で克巳はなぜこれがここにあるのかと問う。むろん、珠玉の右腕だからこそである。そして、烈とは親しく、技術を交し合った克巳には右腕がないのだ。

烈はきっと喜ぶ、これこそが真の供養ではないかと、光成はいう。克巳が拒むのであれば、正しく火葬し、烈のもとに戻すと。難しいところである。克巳としては、片腕というオリジナルを探究している道なかばでもあるのだ。というか、そもそも、どうやってくっつけるのかな・・・。双子とかじゃないと拒否しちゃうんじゃなかったっけ。とおもったけど、臓器移植とかもあるわけだし、不可能ではないのか。

 

これはいわばサイドストーリー、宿禰に至る克巳の物語である。ここで金竜山が嵐川のもとを訪れている場面に移る。「選抜」が済んだようだ。もちろん、バキや宿禰たちと地下闘技場でたたかうことになる現役力士の選抜である。バキ側は、バキ、宿禰、独歩、克巳、渋川、花山であって、力士も同様に6人選ばれているから、ライタイ祭のときのように1試合ずつ行われていく感じのようだ。

選抜は大変だった、それを、金竜山は、協会側の慎重さととる。不慣れなルールでケガのおそれもあり、リスキーなのだ。負けたら負けたで、単独の力士としても、もちろん協会としても、たいへんな不名誉であるはずだ。だが、そういうことではなかった。幕内力士はほぼ全員が出場を希望したのである。そのなかから選ぶのがたいへんだったと。ということはナニか、嵐川は、めぼしいものに絞ってあたったわけではなくて、部屋すべてに通知する感じで募集かけたわけか。もしかして、地下闘技場でやるからてっきり秘密な感じかとおもってたけど、もしかしてふつうに中継とかもしちゃう感じなのかな。そうじゃないとリスク云々のはなしにもならないよな。負けたって秘密にしてればいいのだから。

力士たちは、金竜山が格闘貴族と呼んだ根拠である自尊心を最大に発揮して、むしろ素人である相手の心配をするのである。ほんとのほんとに本気でやっていいのかと。金竜山のこのへんな笑顔はなんだ。喜んでると受け取っていいのかな。彼は宿禰とともに業界をひっくり返したい側だから、しめしめ、とでも腹の底ではおもっているのだろうか。

メンバーは6人、まず横綱「零鵬」195センチ160キロ、小結「炎」165センチ97キロ、関脇「獅子丸」181センチ181キロ、前頭筆頭「鯱鉾」190センチ151キロ、大関「巨鯨」231センチ290キロ、関脇「猛剣」177センチ161キロ。金竜山は納得したようだ。

 

バキは例のバキハウスで稽古を続けている。ときどきやっている横蹴りを真上で静止するトレーニングだが、これを、四股のように地面に落とし、彼なりに相撲の気分をあげているのだった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

なんかすごいふつうにメンバーが決まって、うすた京介的な感じでザッと紹介されちゃったぞ。これは本気で読めない展開だな。力士がほんとに強いという方向にいくのか、それともこのあとなにかがあるのか、まったくわからない。

 

ただまあ、身長体重と、おのおのの表情は公開された。たぶん、誰と対戦するかもだいたい決まっているのだろう。小結「炎」なんかは非常に小柄で、美形の顔立ちでもあり、これはたぶんバキとやるだろう。この身長で選抜されるくらいだから、必ずなにかある人物である。技術の宝庫であるバキとやるべきだ。横綱はほかのものたちの比率からすると身長のわりにちょっと軽いけど、これは宿禰とやるにちがいない。宿禰と横綱がやらないでどうするというはなしなので。

目をひくのは人類最大じゃないかとおもわれるレベルの巨体の「巨鯨」である。これは、花山か、逆をついて渋川かなあ。渋川はたぶんこのひととやりたがるだろう。いちばんちからが強いだろうし。とすると、名前にも顔にも闘争心があふれでている「獅子丸」が花山だろうか。身長のバランスから「鯱鉾」が克巳、「猛剣」が独歩と、こんなところだろう。それぞれのキャラクターが立ってきたらきっと盛り上がってくる。見たところ最初の三人は人格も定まっている感じもある。

 

今回の対戦は相撲観の対立に端を発している。それは、相撲を「観るもの」とするのか「やるもの」とするのか、ひとことでいえば当事者意識の有無であると、ぼくは読んできた。小池才明の代弁する古代相撲の大相撲へのルサンチマンは、みたところほんとうに端的にルサンチマンで、敬意を書きながら栄華を極める「若者」へのうらみのように見える。じっさい、そのぶぶんはかなりあるだろう。そのうえで、大相撲は、古代相撲より弱いと、たぶん、特に宿禰にはそういう本音もあるにちがいない。では、そもそもその「栄華」とやらがなんなのかということを思い返すと、それはつまり、ひとびとからの評価なのである。大相撲が、中継をしても視聴率1パーセント以下で、「相撲」と聞いても誰も力士の姿を思い浮かべないような状況であったなら、このようなかたちで宿禰は立ち上がらなかっただろう。いや、逆に、お前らなにやってんだよしっかりしろ、とはなるかもしれないが、少なくともあのような恨み節にはならなかっただろう。つまり、じっさい、観るものとして、競技としても、神事としても、体系的にありようを見直し、反省を続けた側のことを、わたしたちはいま「大相撲」と認識している、ということなのである。これはじつに歪んでいる。なぜなら、宿禰や小池才明がそのことにひょっとすると嫉妬し、「本来の相撲」という大義名分のもとに仮の相撲にすぎない大相撲を打ち倒そうとするとき、どうしてもその背景には、彼らが手にしていない「観るもの」としてのありようが感じられてしまうからである。大相撲を打ち倒し、古代相撲のほうが強いと証明するだけなら、イベントを打つ必要もないのである。大関をやりこめたように、路上ファイトで済むことだ。そうならないのは、彼らがそれを「みんな」の前で証明したいからであり、その瞬間に、彼らは「観られるもの」となるのである。

何度もいうが、この件にかんしてのカギはやはり金竜山である。彼こそが、地下と地上両方を知りぬく人物であり、宿禰の歪みを見抜ける人物がいるとしたら彼以外いないのだ。もし古代相撲が勝利し、「みんな」の前で「これがほんものの相撲だ」ということが示せたとしても、武蔵の存在が許容されなかったように、それが競技として、人前で行うものとして持続していくために、ルールの整備や法の調整などが不可欠になってくる。だが、それはすでに大相撲がこれまでたどってきた道と少しもちがわないわけなのだ。ちがいは、はじまりが初代宿禰なのか二代目宿禰なのか、という点だけである。金竜山はそのどちらも経験している。

 

 

さて、烈の右腕である。最初に読んだときは、保存の様子からクローンかとおもったのだが、光成の言い方などからするとどうもちがうようである。烈は、火葬された。しかし、彼と親しかった克巳には右腕がない。では、ときがくるまで右腕は保存しておこうと、こういうはなしになったのである。克巳はどうするだろう。そもそも彼が右腕をうしなったのは、ピクルに喰われたからだった。だがその以前に、彼は、烈との共作といってもいい真マッハ拳で右腕を破裂させていた。あのピクルとのたたかいじたいが、烈なしではありえなかった。ということなのであれば、右腕の運命はたしかに烈にゆだねられているととらえられないこともない。だが、そうなるとこれまで片腕というオリジナルを探究してきた彼はどうなるだろうか。「隻腕」という状況それじたいもまた、烈が「プレゼント」してくれた独自の状況である。独自であるから、それがプラスに働くようななにかを獲得しようと克巳はあがいてきたわけだ。つまり、どちらを選んでも、克巳は烈に報いることになる。なんとなく、克巳は拒みそうな気もするが・・・。

烈のはなしが出たときに、板垣先生が断言されていたのでないとはわかっていたが、もしかしてもしかすると、クローン技術で復活するのでは?!とおもわなかったといえば嘘になる。じっさいのところ、作品の構造上それはありえるだろうか。

烈は、宮本武蔵とのたたかいに敗れて死亡した。武蔵は、この世の時間的な秩序からははずれた、宇宙からの飛来物のような、異端である。バキが後半くりかえしいっていた「いてはならない」という言葉は、そういう意味でもある。武蔵が現世にあのように立って動いているという事実が、要するに「不自然」なのである。格闘に限っても、現世は、きちんと宮本武蔵の存在、また功績を踏まえたうえで、バキのような結晶を生み出すほどになっている。バキが、バキとして存在し、たたかう、その内側に、武蔵は宿っている。宿っているというのは、すでに死亡し、その功績が歴史として語られる段階に入っている、ということを意味している。だから、現世にあらわれた武蔵が、彼の知っている価値観のまま行動をすると、あのようなことになる。すべては不自然さ、一種の時空の歪みのような出来事であって、バキはそれを修正したのである。とするなら、烈の死もまた、時空の歪みに過ぎないだろうか。武蔵をもとの場所に戻し、なにもかもそれ以前に戻すということなら、烈も復活させるべきではないかと、こういう理屈は成り立ちうる。しかし、ことはそう単純ではない。なぜなら、烈は武蔵と同類、ファイターだったからである。烈は、武蔵登場を時空の歪み、「不自然さ」とはとらえなかったはずである。彼はそれを喜び、挑戦し、散ったのである。彼の死は、まちがいなく彼の選択だった。武蔵があらわれなければ烈は死ななかった、である以上、武蔵がいない世界を取り戻すのであれば、烈は生き返らなければならない、といえばそうなのだが、それは同時に、そのたたかいを望んだ烈を消し去るということでもあるのだ。

とはいえ、武蔵があらわれなければ、その願望じたいについて烈が自覚することもなかった、といえばそれもそうである。だがもうひとつ重要なことは、烈が敗北の結果死亡した、ということだ。烈は、腹への斬撃を、次に活かせる経験としつつ死んだ。敗北は、彼を育てる養分であり、となれば、敗北はそれとして彼の人生に段階的な像を結ばなければならないのである。問題なのは死んでしまっては次がない、ということなのだが、いずれにせよ、復活した烈は、それを喜ばない可能性が高い。彼の人生は、敗北を活かすことで成り立っていたのであり、復活は、あのときの武蔵への敗北を否定することになるからである。復活した瞬間に、烈は、それまで蓄積された勝敗の価値を見失ってしまうにちがいないのだ。

 

まあいま重要なことは克巳がどう受け取るか、ということだ。力士サイドでは金竜山の真意もこれからは非常に重要になってくる。そういえば勇次郎はどうしてるのかな・・・