今週のバキ道/第24話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第24話/宿禰の修行

 

 

 

 

 

 

強者がまわりにごろごろしているわけでもないっぽい宿禰がどうやってあそこまで強くなったのか、今回は彼の修行法が明かされる。

前回は四股を行っていた。四股じたいは、力士でなくても取り入れることがある、効果的かつきつい鍛錬だ。宿禰はそれを長時間静止させた状態から落下させる。しかし、それであんなからだになるはずもない。もうひとつ重要な鍛錬があった。小池才明はそれを「最新にして最古の筋トレ」と呼ぶ。

 

宿禰は低く腰を落とした状態で静止している。体重も大きいし、ただの中腰でも下半身への負担はすごそうだが、それほど大袈裟なものでもない。筋肉のひとつひとつを徹底的に鍛え上げる近代のウェイトトレーニング、またそれを育てていくための超回復や栄養学的な研究、これらを宿禰の中腰が上回るとはおもえない。光成は懐疑的にそのようにいう。このじてんの光成はまだどこか意地悪である。相手が若い僧で、べつに格闘技者でもないので、ちょっとなめているのかもしれない。いつも気持ちのいい老人とはいいがたい人物だが、今回はとりわけてひどいぞ。

 

いかに中腰の姿勢がきつくても、それを近代のウェイトトレーニングと比較するのは無理がある。だいたい、静止しているのだから、トレーニングとしてものがちがうのではないかと、こういうようなはなしだ。だが小池は、動いているという。強敵と「立ち合い中」なのだ。

応じて光成は、なぜエア力士なのかと問う。これだけの小池のことばで、エア力士とイメージで立ち合っている、というふうに理解したのは、やはりバキのリアルシャドーを知っているからだろう。しかし、光成はバキに対して「なぜ実物のファイターと戦わないの?」とはいわない。バキが強いということを事実として知っていて、宿禰にかんしてはまだ懐疑的である、ということももちろんあるとおもうが、もっと大きいのは、宿禰がこの聖地にこもっているからだろう。ここにずっといてなにをしているのか、強者から逃げているのではあるまいか、こういう疑念があるからこそ、バキの経験を通してリアルシャドー、「エア力士」をすんなり理解しながらも、バキに対してはくちにしないことをあっさり言ってのけるのである。

だが光成は、本物の力士とやればいい、という言い方をしている。握力でダイヤを作れる人間とふつうの力士が対等にたたかえるわけがない。つまり、いろいろ小池を通して経緯を聞きながらも、このときの光成はまだぜんぜん宿禰の神話を信じていないのだ。

だが、宿禰がイメージしている力士はふつうではない。身長2メートル、体重250キロ。たしかに巨漢だが、欧米を見ればいないこともないサイズである。だが、その「250キロ」というのは、全方位に向いたものだというのである。250キロでのしかかり、浮き上がり、横へ斜めへ、重力というひとつの方向の運動にとらわれず、全方向に落下するのだと。イメージ図では、なんというかこう、逆ブラックホールみたいなことになっている。だが、たぶんちょっとちがうだろう。もっと正確には、宿禰の意図した方向の逆側に250キロの負荷がかかる、という感じが正しいのではないだろうか。しかもこの力士は回転もする。重力にとらわれていないのだからそれも当然である。つまり、このイメージ力士は、おそらくひとのかたちをしてはいるが、ただそれだけ、あとは、宿禰の引く逆に、踏ん張る宿禰を吊る方向に、自由自在に250キロの負荷をかけてくる存在なのである。

ほんとうにそれが行われているなら、なかなかアクロバティックなトレーニングである。信用しないまでも、光成はこのはなしを受け容れたようだ。そして、それでも納得できないという。「守護神」にしてはハードすぎると。なんのためにそこまでがんばるのか。おそらく宿禰に感化されたのであろう小池が代弁する。大相撲に鉄槌をくらわすのだと。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

うーむ、一人相撲をきわめる方向性できたか・・・。バキ世界ではほかならぬバキが、イメージトレーニングで強くなっているので、説得力はあるが、そのうえで、握力は果たしてつくだろうか、という疑問も残る。花山スペック戦によれば、瞬発力は生来のもの、ということなので、爆発的な握力はもともともっていた、ということで片付くだろうが、でも宿禰は石炭をこねこねしてダイヤつくった感じだよね・・・。あのからだで木登りや指立てなどにはげんでいた、とかならまだわからないでもないのだが。今回は光成がヘイターになってくれたので、けっこう宿禰の神話性にかんしてわかるところが出てきた。と同時に、あってもいいタイミングで握力への言及がない。となると、今後握力にかんしてはまた別の修行方法が開示されるのかもしれない。

 

自重トレーニングが最古のトレーニングであるということはまちがいないだろう。ぼくのように、ポール・ウェイドの『プリズナートレーニング』に洗脳されたトレーニーであれば、ここは大きく頷いてくださるはずだ。そしてそれが「最新」であるということは、おそらくそれが忘れさられてしまっているからである。げんに、「プリズナートレーニング」に示されている、キャリステニクスと呼ばれる自重を用いたハードワークは、以前までは監獄以外の場所ではほとんど死に絶えてしまっていたのだ。「古い」ということは、シンプルであるということだ。宿禰は実質身ひとつしか用いていない。このトレーニングは、いつでもどこでも、目覚めてさえいればできるものなのである。そして、それをハードにつきつめていったとき、それは最新になる。腕立て伏せくらいなら現代人でも行うが、プランシェに挑戦しようとはなかなかならない。そこに新しさが宿る、おそらくそういうはなしなのだ。

 

 

小池が応えているように、宿禰は考えられる最強の敵を想定して訓練しているので、聖地の外に出る必要がない。これで、彼は聖地を守るという任務を果たすことができる。これは、どちらが先であったのか、微妙なところだ。聖地を守らなければならない、しかし強くもならなくてはならない、そういう先に、究極の自重トレーニングといってもいいようなリアルシャドーが完成したわけである。それは、光成の目からみてもハードなトレーニングだ。しかし、彼が想定する敵が、彼の想像を上回ることはない。宿禰に付け入るすきがあるとすればそこしかないだろう。聖地の外に出られないから、宿禰は禁欲的に考えられる最強の敵を相手にたたかってきた。けれども、その想定は、聖地のなかにいる限りにおいてなのである。おそらくその自覚があるから、宿禰は、物理法則さえ無視した敵を用意した。けれども、それで果たして、たとえば勇次郎のようなひとを超えた存在や、武蔵のリアリズムを超越できるだろうか。

 

だが、当座はこれで問題ない。なぜなら、宿禰の目的は大相撲に鉄槌をくだすことだからである。勇次郎が宿禰に興味をもつことになったら、それが邪と認識されて、たたかいに発展する可能性はあるが、たぶんいまはまだそういう段階ではないのだ。

 

で、大相撲だが、これは何度も書いているように、金竜山の「きれいな相撲」の反対命題なわけである。ひとことでいえば八百長だ。土俵のなかにいる行司以外のふたりの男、この関係性が、闘争という表現である。しかし、作中の大相撲では、ここに外部との関係性が組み込まれる。要するにスポンサーとかテレビとか大衆とかそういうことだ。これが、きれいではない相撲を呼び込む。ふたりどころか、ずっと一人で相撲をしてきた宿禰からしたら想像しがたい世界だろう。鉄槌を下す、だけでなく、相撲を真の国技として取り戻すために、少なくとも金竜山は動いている。そのためには、この外部との関係性を断たなければならない。ここで、小池の言にもどれば、そのために、宿禰はあのハードなトレーニングをしているというはなしだ。相撲から「外部」を排除するためには、誰にも負けない最強の力士になる必要がある、ということなのである。ここのところがどうつながっていくのかはまだ不明だ。少なくとも、大関に説教をしていたえらいひとは、まだ外部的な文脈でこれをとらえている。作り笑いして逃げればいいところ、投げられたの張り手をくりだした大関のほうがむしろ、「外部」から断絶した「きれいな相撲」を行っていた。あれが大相撲全体にわたって起こればよいのである。すべての力士が宿禰を下回るのだとしても、それはそれでかまわない。だがそこまでいくのに、宿禰は圧倒的な強さを必要とするのである。