今週の闇金ウシジマくん/第491話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第491話/ウシジマくん77

 

 

 

 

 

 

外国人たちがつぶされたプレス機、と同じかどうかよくわからないが、ともかく同じようにされつつあった丑嶋。柄崎は必死で目を覚ますように訴えかける。丑嶋は拒否したようだったが、潰される直前、丑嶋はついにヤクザになって出頭すると、敗北宣言をしたのだった。

 

そのために盃を交わさなければならない。滑皮は柄崎に酒と盃を買って来いという。だが、いちばん近くのコンビニまで往復30分。新宿まで1時間半ということで、ギリ例の劉との商談に間に合わない。鳶田がそういうので、柄崎は、水じゃだめんでしょうかとおそるおそるいう。丑嶋の荷物のなかにあった、鳶田のくちがついたあのあやしすぎる水である。ヤクザには盃事は大事な儀式だ。水なんかでできないと鳶田はいうが、「水盃」というものもあると滑皮が教える。ヤクザの行事とは異なるっぽいが、侍が切腹するときに行ったらしい。今生で二度と会わないという別れの儀式だ。洋の東西を問わず、水は異界を意味することが多いようだ。そういうことならちょっとヤクザの盃とはちがう気もするが、滑皮がそういってるのだから、いまはそれでいいのだ。

 

水のペットボトルがふたつにきられ、盃といれものになる。鳶田は立会い人として、決まった文言のようなことをいう。これは兄弟盃のようである。まず滑皮が飲んで、滑皮が丑嶋に持っている気持ちのぶんだけ残し、それを丑嶋が飲む。盃はひとつなので廻す感じだが、この「残す」というのは、盃のなかに最初に残っていた水に対していうのか、それとも残りの補充ぶんについていうのか、調べてもよくわからない。鳶田はふつうに注いじゃってるけど・・・。

 

ここで、鳶田の様子がおかしくなる。決まったセリフ通り、お神酒といおうとしたところ、お神酒ではなく水なので、ちょっと戸惑ったところで発症した感じだ。ろれつがまわらないのである。滑皮はなにかひっかかるという。ここで気づいてもよかったのだが、おそらく、ここで行われることが水盃で、お神酒ではない、そのことで、鳶田がカミカミになってしまった、くらいにとらえているようだ。

 

滑皮は、前回のあの、喜びと落胆についてみずから説明する。服従するなら死を選ぶ人間だとおもっていたと。丑嶋は突き飛ばされたときに折れた肋骨が痛い。滑皮としては、丑嶋という人格にはがっかりしたが、これでいままで思うとおりに動かなかった丑嶋を手中に収められるということに変わりはなく、盃を飲む。飲み干してはいないようだ。残ったぶんが丑嶋への気持ち・・・かと思いきや、ふつうに鳶田は注ぎ足してる。やっぱりわからんな。

盃を交わしたら、豹堂殺害に使われた外国人たちの銃をもって出頭する。が、丑嶋は態度を豹変させて、これを断る。

と同時に、水を注いでいた鳶田が泡をふいてぶっ倒れる。鳶田が水を飲んだのはけっこう前だ。すぐには効かないものなのかもしれない。だとしたらまだ滑皮は大丈夫だが、ともかく、丑嶋がなにかしたっぽいのはまちがいない。だが、丑嶋はじっさいにはなにもしていない。ただ、外国人たちが仕込んだ水を持ち歩いていただけだ。

滑皮はいそいで指をくちのなかに突っ込んで水を吐き出す。ここで柄崎も態度を変えている。ヤクザと役者は一文字違い、という、彼らのことばを、どこで聴いたのか引っ張り出して、じぶんが丑嶋を裏切るはずないというのである。

さらにとどめに戌亥である。戌亥は、滑皮のためか丑嶋のためか、救急車を呼んだという。そして、一部始終を盗撮した動画を警察に届けると。あなたのことは好きだが、態度は嫌いだ、という、なにやら意味深なことばも出る。

 

追い詰められた滑皮は、近くにあったということなのか、丑嶋のもっていた銃を取り出して怒鳴りながら構える。が、無駄なのである。中身は模擬弾なのであった。

 

 

 

 

つづく。次回最終回。

 

 

 

 

まさかの大逆転、完全勝利である。が、違和感の残る箇所もある。ひとつひとつ見ていく。

 

今回の大逆転は、ぱっと見はいままでの丑嶋の逆転のしかたとよく似ている。あの全能感たっぷりのウシジマくんである。彼の全能感は、金を関係のなかに介在させたときに強く発揮される。丑嶋はみずからすすんで「金がすべて」な世界に身を置いている。そうすることで、彼はすべてを掌握することができた。じゃっかん同語反復的になるが、「金がすべて」の世界に身を置いて金を管理しているのだから、考えてみれば当たり前のことだ。事実としてお金にそれだけのちからがある、ということも重要だろうが、ともあれ、彼はそうして、ひとびとの欲望、要するに動機を金に読み換えることで、なにもかもをコントロールしてきたのである。典型はヤンキーくんの愛沢と元ホストくんの鼓舞羅である。これを「漁夫の利ルート」と呼ぼう。ヤンキーくんでは、愛沢が襲いかかってくるとわかっていて、丑嶋は熊倉のもとにおもむき、そこに愛沢を誘いこんで、滑皮への嫌がらせこみでこれを一気に片付けた。元ホストくんでは、ブレーカーを落として真っ暗になったところに電話をかけ、そこへ鼓舞羅が攻撃する、という作戦を、裏切りかけていた柄崎と鼓舞羅が立てていたところ、柄崎の機転で電話を熊倉にかけ、結果鼓舞羅は熊倉を殴打、即座に彼は滑皮に射殺されたのだった。ヤンキーくんでは愛沢はトラックダイブ、滑皮は熊倉にヤキを入れられたし、鼓舞羅に殴られた熊倉は以後不調、敵対していた鼓舞羅は滑皮が始末してくれた。どちらも丑嶋は見ていただけである。眺めながら、微妙に、からだの位置をずらしているだけなのだ。しかし、これは、彼が丑嶋だったから起こったことでもある。これが高田であったなら、愛沢は襲いに来ないし、そもそも熊倉の事務所に入れないのである。戌亥がマグネターという比喩を持ち出すのも、そういう印象こみかもしれない。

丑嶋が全能に見える、あるいは見えたのは、彼の世界認識が金を経由していたからである。これが通用しない人物がまれにいる。作中では竹本とハブがそうだったろう。ハブのばあいは、もともとは同じ世界の住人だったが、丑嶋への殺意に支配されて殺人マシンと化してしまった。彼にとってはもはや金の問題ではなかった。それが、丑嶋からいつもの全能感を奪い、直接レーザービームで攻撃させたのである。

甲児のときはどうだろう。あのときも、丑嶋はすっかりそのちからを失っていたが、最後の最後、おそらく残った金のすべてをおとりにすることで、甲児を「金がすべて」の世界におろすことに成功した。板垣恵介作品でよく描かれることで、武器を持つと、ひとはその武器を使用する以外のことができなくなる、ということがある。特に素人だとそうなのだ。刀はたしかに強力な武器かもしれないが、自在に使いこなせているわけではないものがそれをもっても、仮にそれが別の武芸の修練者であっても、その武器に支配されて、ひとつの動きしかできなくなってしまうのである。それと似たようなものだ。金がからむと、ひとは、金がからんだ行動しかできなくなるのである。

 

今回の逆転劇は、ヤンキーくんや元ホストくんのころを思い出させるなにかがある。が、その大部分は偶然の出来事だ。あげていくとキリがない。水まわり限ってもたくさんある。外国人が水に毒を仕込んだと滑皮たちは知らなかったこと、鳶田がそれをちょっと飲んでしまうこと、劉との約束があって滑皮たちは急いでいたこと、盃は水でもよいと滑皮が認めること、鳶田の毒がうまくあの盃のときに効いてくれたこと、これらはすべて“たまたま”である。コントロールできるものではないのだ。

それもそのはずである。あとでみるが、今回芝居っぽく見える柄崎や戌亥との一連のプレーも、じっさいには彼らの息があっていたから成ったものであって、制御された結果あらわれたものではない。それというのは、丑嶋がすでに「選び取る人生」というものが幻想だった、ということを認めているからである。注意しなければならないのは、お金を経由した全能性と、この「人生を選び取る」ちからというものは、同一ではないということだろう。丑嶋にとっての初期衝動、いまの丑嶋を丑嶋たらしめているもの、それが、父性の否定であり、家族の擬制を旨とするヤクザの拒否であり、奪われない、そして「選び取る」ということなのである。その先に、闇金業があるのだ。そう考えてみると、ほんとうに「選び取る人生」は幻想なのだろうか、という点にかんして、多少見通しがよくなるかもしれない。「選び取る人生」は動機であり、闇金はその手段であり、全能性はその結果である。だから、「選び取る人生」が、主観に過ぎない幻想だった、という仮説は、その外部のありようによって相対化されたときに現実のものになる。柄崎は、その丑嶋のこだわりを「ガキみたいな意地」というふうに形容したが、それはなかなか、その通りなのだ。柄崎がエゴを克服して獲得したものは、人間としての丑嶋社長への敬愛である。丑嶋社長の社会的価値とか、魅力とか、そういうものは最終的にはどうでもいい。ただ、親しいものとしてその無事を願う。これは、それ以上相対化不可能な、人間にとってはもっとも巨大かつ絶対的な感情ともいえるだろう。丑嶋がこだわった「選び取る人生」の外側には、そうした「ただの人間」としての感情やかかわりがあった。それは、抑制したり意図的に動かしたりするものではない。「選び取る人生」という価値観は、幻想だといわれれば、それを求めるものからすれば残念なはなしになるかもしれないが、そういう生き方それじたいはあってもよい。だが、人間には情念がある。少なくとも柄崎は丑嶋より先にそのことを悟ったのだ。

 

丑嶋が、多少の迷いはあっても、「選び取る人生」にこだわり続けたのは、何度も書いているが、竹本の件があったからである。いま暴力に直面して折れるなら、あのとき折れて、竹本を許せばよかったのではないかと、当然このようになるのである。しかし彼は、じぶんの任務に忠実に、竹本を地獄送りにした。である以上、彼はこの生き方をまっとうしなくてはならない。では、彼はそのことを後悔しているのかというと、それはちょっとちがうだろう。なぜなら、竹本じしん、あのとき、じぶんの信念を貫いていたからである。だから、強烈なシンパシーが丑嶋を襲い、泣いてしまうということが起こったのである。あのときのじぶんの行為を肯定できるものにすることは、竹本の行いを肯定することでもある。竹本がそうする以上、丑嶋もそうするしかなかったのだ。まー泣くしかないよね。

こういうわけだから、竹本の理念もまた、「ただの人間」という広い視野からすると「ガキみたいな意地」になるのであり、幻想だということになる。

丑嶋は少し前に、ヤクザの言いなりになるくらいならと自殺しようとしたことがあるが、あのとき、彼のあたまのなかには竹本があらわれていた。あの意味が、いまなら少しわかる。丑嶋にとって竹本は、いまの生き方を続けなければならない理由であると同時に、それがまちがいではないと確認するための同朋のようなものでもあったわけである。それが、否定されつつあった。そのことが、竹本のくちを通して語られていたわけなのだ。彼自身、迷いがあって、ほんとうにこれで正しいのかと、どこかで考えていた。それを、彼のなかのべつの姿をした彼自身、つまり竹本が、きつい口調でとがめたのである。

柄崎の獲得した「ただの人間」の視点は、丑嶋/竹本の視点を相対化する。それは、絶対的なものではない。げんに、金の問題ではなくなっていたハブには、全能感は至らなかったのだ。「闇金」は選択肢のひとつであり、それが通じない状況、そのままでは「奪われる」状況というのは、原理的にはじゅうぶんありえるのだ。

 

そうして今回である。細かいところは最終回、描かれるのかどうか、微妙なところであるが、現時点でぼくが直感的におもうことを書いておこう。今回のこの流れを丑嶋が完全に想定していたかというと、それはあやしいのではないか、というのがぼくの想像である。なにしろ偶然の出来事が多すぎるのだ。だが、やたら水をすすめていたことからして、どうやら柄崎だけは、あの水が仕掛けのあるものだということを知っていたようである。となれば、あの、ホテルでのやりとりのときに丑嶋が伝えたのだろう。だが、そこでなんらかの作戦を立てて柄崎が出発した、というのも、ちょっとちがうような気がする。あのとき柄崎はほんとうに説得に失敗して、これしかないと、滑皮のもとにいったのである。

状況はみたまま、刻々と動いていった。柄崎と丑嶋が共有している情報は、あの水が(確認はしていないが)どうも毒っぽい、ということだけである。戌亥はまあ、ありえないくらい有能なので、動画をとっていても別に驚かないが、ともかく、プレス機のなかで丑嶋はようやく「ただの人間」の視点を得ることができたのである。それは、情念でつながる関係性だ。「選び取る人生」は幻想だった。だからといって絶望するばかりではいけない。そのうえで勝利するにはどうすればよいのか。それは、「ただの人間」として相手を信頼し、不如意に動くことを認め、そのなかに可能性を見出すことなのである。

 

つまりこうである。丑嶋は、あのときほんとうに柄崎に裏切られ、外国人につかまった。そして絶望的な状況に追い込まれる。だがふと見ると、あの水がある。鳶田はそれを飲んだ。じっさいのところあの水がほんとうに毒かどうかは断定できない。しかし、丑嶋にはもうそれしかない。やがてプレス機に放り込まれた彼は、「ただの人間」になることができた。「ただの人間」は、信念のために「死んだほうがマシ」とは考えない。親しいものの願いに応えて、とにかく目の前にぶら下がった糸にしがみついてみることもあるのである。そうしたところで盃事がはじまる。鳶田が露骨に具合悪くなる。これで、あの水が毒だということが確実になった。そして滑皮が飲むのを見届けた。

柄崎のばあいは、なんらかの事情で、水が毒だという情報だけを手に入れて、滑皮のもとに向かった。このままでは丑嶋は殺されてしまうからである。柄崎の願いは届き、丑嶋は目を覚ました。ここでやはりふと、あの水のことを思い出す。あるいは、必要になったときのためにとっておく、というようなことを社長がいっていて、それを思い出したのかもしれない。ともかく、柄崎は、これが最後の機会ということで、水をすすめたと。

 

ただ、この流れでも、銃の問題が残る。問題点はふたつ、なぜ滑皮がじぶんの銃や、近くに置いてあるっぽい外国人の銃でなく、丑嶋の銃をとったのかということ、そして、なぜ丑嶋は模擬弾を装填していたのかということだ。

このことについて、まず丑嶋が、外国人に対して滑皮が「全弾」つかった、というふうにいっている、ということがある。ぼくはそれで弾を使い切ったから、滑皮は丑嶋の銃を使ったのかと最初におもったのだが(そうすれば外国人のひとりが生きていたことの説明にもなる。要は、弾がなくなったのである)、どうもそうではないっぽい。そのときのスピリッツを読み返すと、滑皮たちは計3発しか撃っていないのである。だから、これはただの「表現」である可能性がある。「全弾」というのは、「すべての弾」ということではなく、「たくさんの弾」くらいの意味なのだ。

仮にそうだとして、なぜ滑皮は丑嶋の銃をとったのか。

現実的な理由はわからない。たとえば、外国人を撃ったあと、儀式に不向きだとかで滑皮は銃を鳶田に預けてしまったのかもしれない。あるいは、たんに焦って、いちばん最初に目についた銃を手にとってしまっただけなのかもしれない。なんともいえない。ただ、滑皮がげんに丑嶋の銃を手に取った、という事実があるだけである。

大雑把な仮説になるが、これは一種の反射ではないかとおもわれる。また板垣漫画を参照するが、『餓狼伝』という作品で、身体能力的には作中随一、しかも師匠のグレート巽ゆずりの策士でもある鞍馬というプロレスラーが、部位鍛錬に特化した実戦派の片岡という空手家と対戦したときのことである。鞍馬はお調子者で、真面目な片岡を挑発しまくるが、相手の実力を見誤ってはいない。片岡の性格を正しく見抜き、たたかいながら彼は作戦を立てていく。それは、人間は、じぶんにかけられた苦しい技を相手にもかけようとしてしまうということだった。鞍馬は片岡にヘッドロックをかけることに成功した。これが、はずれたかはずしたかして、片岡は自由になる。彼の打撃は本物であり、一撃で鞍馬の胸骨を割るほどのものだ。だからそのあとも打撃でいけばよかった。ところが、あまりの苦痛に我を忘れた空手家の片岡は、解かれた瞬間、鞍馬に向かってヘッドロックをしようとしてしまうのである。

もとをたどれば、丑嶋のもっていた銃も滑皮のものではある。じっさいそういうことを滑皮もこの場所にきてから言っている。しかし、滑皮的にはじぶんを殺そうと向かってくる銃弾を装填したものとしてその銃は認識されていて、表面的には「丑嶋の銃」というイメージもあったはずである。なにがいいたいかというと、滑皮は、じぶんが雇った外国人の仕込んだ水によって、鳶田やじしんの身体にダメージを受けているわけである。したたかに利用された、そういう激情が、彼を瞬間的に襲ったにちがいないのだ。そうしたところで、片岡ができもしないヘッドロックをプロレスラーに向けてかけようとしたように、滑皮は反射的に、じぶんに向けられる予定だった、ある意味いまわしい銃を手に取らないではいられなかったのではないだろうか。

 

これも、この段階まではまだ表層的な読みにすぎない。模擬弾の問題はもっと深いところまでいかなくてはならない。丑嶋と滑皮は父性に対する認識で分岐した。つまり、分岐するまでの根本においては、構造的には同一人物である。滑皮は、父の非を彼の父個人に見出し、丑嶋は父子という構造そのものに見出した。だから、滑皮はヤクザになって、実物の父ではない父子の擬制に価値を見出し、たほうで丑嶋はそれを拒み、そんな道を選んだ滑皮の気が知れないともいう。こういう状況で、丑嶋においては「選び取る人生」が幻想であった、という認識が訪れた。このとき、父への感情はどのようなものになるだろう。ポイントは、事実を受け容れることと、そこに積極的に与することはちがう、というところだろうか。丑嶋の「奪われない」、選び取る人生は、父からの搾取を想定したものだ。そして彼は、タメどうしでつくった会社で、金を支配して、父なるものを戴かない生き方を選んだつもりでいた。しかしそれは、孫悟空がお釈迦さまのてのひらで暴れているようなもので、幻想に過ぎなかったのである。だが、だからといって父なるものを急に認めていこうというふうになるかというと、ならないわけである。では、このいまの瞬間の丑嶋の世界認識はどのようなものか。「ただの人間」になって、人間的な情念で動くことが可能になったのだとして、とりわけ滑皮にかんして、彼はどういうつもりでいるのか。いささか飛躍しすぎかともおもわれるが、それは竹本のときと同様、一種のシンパシーではないかとおもわれるのである。

最初に模擬弾が登場したのは、丑嶋がハブのアジトに乗り込んだときだ。加納を助けようとして、預かっていた滑皮の銃を使おうとした丑嶋だったが、熊倉にそのなかみが模擬弾であることを指摘されたのだ。丑嶋はあのとき、「滑皮の銃」を使用しようとして失敗している。そして今回、滑皮は「丑嶋の銃」を使用しようとして失敗しているのである。この反復は、むろん丑嶋にとってはただの戦略だっただろうが、物語としてはもうひとつ重大なことも教えているわけである。つまり、両者は鏡であったのだと。丑嶋の「選び取る人生」が幻想であったのなら、滑皮の、ダブルバインドを乗り越えるヤクザ的人生もまた、幻想だったのである。

 

長くなりすぎたし飛躍しすぎなので、このくらいで。完結してからもっと深めていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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