第490話/ウシジマくん76
柄崎に「売られた」ことでついに滑皮に確保されてしまった丑嶋。
滑皮は鳶田とともに、丑嶋拉致や豹堂殺害実行犯である外国人たちを始末する。豹堂の死体はあえてそのままにされている。その犯人として出頭するか、この場で死ぬか、丑嶋に残されている選択肢は少ない。
外国人たちがごみを圧縮する機械のなかに投げ込まれる、ひとりは息があったようだが、どうやらリアクション要員だったっぽい。うえに鉄くずを大量にまいて、壁が倒れてくる感じだ。悲鳴とともに立方体の鉄のかたまりができあがる。これは、映画の『凶気の桜』で、江口洋介演じるサブローという殺し屋がやっていたのと同じ方法だ。殺した女を車のなかに放置して、その車をそのまま圧縮してしまう。そのとき、いまだにどういう意味かよくわからないが、潰す前と潰したあとに焼酎をかける場面があった。原作では「消毒」ということになっていたが、虫が寄ってこないようにとかそういうことだろうか。
サブローが解体現場にそのまま放置していったが、今回の外国人は鳶田があとで海に捨ててくるということだ。
次は丑嶋だ。後ろ手にしばられて自由に動けない彼を、滑皮が力ずくでいきなり引っ張り、プレス機のなかに投げ込む。このとき、受身がとれないせいか、丑嶋はどこかを骨折してしまったようだ。
返事は3秒以内。もし丑嶋が自首しないのなら、かわりに戌亥を行かせるという。豹堂におどされて多少協力していたことはまちがいない、滑皮はそのことも知っていた。どうやって知ったのだろう。戌亥のことを調べるのに戌亥は使えないし・・・。
もともと、豹堂殺しとして誰かを出頭させるという行為には、ほとんど意味がない。というか、逆に、「意味」しかない。いつも通り氷にして消してしまえば済むことだ。それをしないのは、滑皮にとって特別な意味が、丑嶋を出頭させるということにはあるからである。だから、丑嶋がもしこのまま死ぬならた戌亥を使うのはそうなのかもしれないが、この段階ではまだ脅しだろう。丑嶋に、とことん、じぶんがどれだけ他人に負荷をかけた生き方をしているのか、感じさせているのである。
滑皮がカウントをはじめる。外国人がプレス機に入れられたときは珍しく汗をかいていた丑嶋だが、この段階ではなぜかすっきりした表情に戻っている。そこで、柄崎がストップをかける。そして土下座する。滑皮にではなく、丑嶋にである。目を覚ましてくれ、負けを認めて、刑務所に入ってくれと。「最初から勝負できる相手じゃなかった」と、柄崎は以前と同じようなこともいう。丑嶋は、たぶん震え声で、黙れとだけ応える。ここで柄崎がタメ口になる。目や鼻から汁をたらしながら、なりふりかまわず丑嶋を説得しようとするのだ。ガキみたいな意地を張るのはやめて、滑皮にわびをいれて、盃をもらおうと。それを聞いた滑皮は、まんざらでもなさそうだ。
じぶんはどんな形でも、とにかく丑嶋には生きてもらいたいと、柄崎はいう。このときの丑嶋も、まだ「黙れ」といっている。それを見てか、滑皮が鳶田に合図を送り、壁が倒れかかってくる。そこでついに丑嶋が「やめてくれ」と叫ぶ。出頭でもなんでもする、形だけでも舎弟にしてもらって、その足で出頭すると、丑嶋はいうのである。
さっきはあんなふうに、丑嶋がヤクザになることをちょっと喜んでいるふうだった滑皮だが、やはり彼の丑嶋に対する感情には複雑なものがあるようである。命乞いをしてついにヤクザになると言い出した丑嶋を、滑皮は「無様だな」というのだった。
つづく。
あと2話。最終回に大量増ページとかしなければ、あと36頁くらいである。1頁3コマだとしたら、あと100コマくらいか・・・。ちっとも終わる気がしないな。ちなみに作者のツイッターによれば、3月4日発売号で完結ということなので、このまま最後まで休載なしな感じだ。
柄崎としては、こうするほかない、ということで、滑皮に居場所を伝えたはずである。あのまま滑皮殺しに突っ走っていたら、たぶん丑嶋は死んでいた。柄崎からすれば、もう、謝って、言われたとおりに豹堂を殺して、刑務所行くなりなんなりして、ヤクザになるほかない、というところだったが、丑嶋は説得に応じない。そこで柄崎は、いってみれば「死ぬよりはマシ」ということで、滑皮を呼んだのである。丑嶋からすれば、そもそもその「死ぬよりはマシ」が疑わしいというか、むしろ「死んだほうがマシ」であって、だからこそあの説得が無効になったわけだが、それは、今回「ガキみてえな意地」ということになったのだった。
しかし、もう殺されるという段階になっても丑嶋は信念を曲げない。そこで、柄崎の土下座が出てくる。ここが今回のおもしろいところである。柄崎は丑嶋を守りたい、というか生かしたい。そして、滑皮は丑嶋を殺そうとしている。となれば、ふつう、滑皮に土下座しそうなものである。そうならないのは、それが無意味だということがわかっているからだ。滑皮が重視するのは、豹堂殺しをほかならぬ丑嶋がかぶる、ということなのだ。ほかならぬ丑嶋が屈服し、ヤクザになり、豹堂殺しをかぶることで、みずからのありようの正しさを認めさせたい。だから、柄崎がなにをいっても意味がない。これは「滑皮にとっての丑嶋」の問題であるから、柄崎の手持ちの道具でこれを超える利益なりなんなりを滑皮に示すことはできないのである。
ここでの柄崎の目的は、丑嶋に目を覚まさせることである。もっと具体的にいえば、選び取る人生、じぶんですべてを決定する人生、というモデルが幻想だったということを丑嶋じしんの意志で認めさせることである。これは、丑嶋じしんが納得しなければならない。そうでなければ、滑皮に屈服することが「死んだほうがマシ」から「死ぬよりマシ」に転じることがないからである。くりかえしみたことだが、以前までの柄崎はあくまで自己愛の領域で、丑嶋を崇拝していた。それが「最強の柄崎」のくだりである。社長が唯一無二の存在でい続けてくれれば、その右腕であるじぶんも、少なくとも柄崎界では唯一無二の存在でいることができる。これは、甲児に拉致されたり、チューボーにバカにされたりしていた段階まではまだ生きていた。柄崎は、ごく最近まで、つきつめるとじぶんのために丑嶋の安全を願っていたのである。そこに、滑皮の誘いがあった。丑嶋を決定的に損ないたい滑皮は、彼の無価値をつきつけるには柄崎を奪い取ることがもっとも有効だと考えていたのである。けれども、柄崎はむしろこれを機会に覚悟を決めた。彼は、滑皮から受け取った金を投げ捨て、ついにこれを克服したのである。そうしてどうなったかというと、ようやく柄崎は、ひとりの人間として、というと別のシーンが浮かんでくるが、人間対人間として、丑嶋を敬愛することができるようになった。重要なのはここだ。だからこそ柄崎は、「丑嶋の(生存の)ために丑嶋(の人生観)を裏切る」というようなことが可能になったのである。以前までの柄崎には、次善を選ぶことはできなかったはずだ。しかしいまは、とにかく生きてもらいたいから、滑皮への屈服をうながすこともできるようになったのである。
だから、今回柄崎は、車のなかでしたように、中学・シシック時代のタメ口にもどっているが、これはそれとは明らかに異なっているわけである。彼が丑嶋に対してタメ口になるのは、ひとりの人間として、関係性を超えて発言するときだ。車のなかで怒ったときの柄崎は、中学時代の柄崎と等価である。それは、丑嶋に出会う前の、彼にとっては無価値な、むなしい生である。だから、価値を失いつつある丑嶋に我慢がならなかった。それはじぶんの価値が失われることも意味していたから。しかしいまはそうではない。柄崎は、丑嶋の唯一無二の価値より、その生存を、ひとりの親しい人間として願うことができるようになっている。こういう状況で出てくるタメ口、つまりひとりの人間としての発言は、種類としては等しくても、質として異なっているわけだ。
滑皮もまた果てしなく複雑な人間だ。そもそも、豹堂殺しを丑嶋にかぶらせるということじたいが、滑皮と丑嶋以外には意味のないイベントである。豹堂が邪魔なのはまちがいなかっただろうが、殺してしまう決断さえしてしまえば(それは梶尾がしてくれたヤクザ的導きである)、あとは鹿島のときのようにきれさっぱり消してしまえばよいのである。このピリピリした状況でそれをするのはかなり危険ではあるが、それは、ほぼ身内である丑嶋に罪をおしつけたとしても同じことだろう。
滑皮は丑嶋に豹堂殺しをかぶるか死ぬか選ばせる。丑嶋はこのことで人生を選ぶことばできるわけだが、むろん、それは滑皮の掌の中においてのはなしだ。これは、おそらく柄崎が達観した光景そのものである。いままでもずっとそうだったのだ。いままでもずっと、丑嶋は、じぶんで生を構築してきたつもりが、実は誰かに選ばされていただけだったのだ。だから、この時点で滑皮は、彼の考えのうちでは勝利している。だが究極的にはたぶん、彼は丑嶋に豹堂殺しを飲んでもらいたいはずだ。詳細は省くが、滑皮がヤクザ社会でトップに立つには、ダブルバインドを克服しなくてはならない。豹堂と仲良くしなければならない、という鳩山の命令を守りつつ、これを殺すのである。トップに立つからには、そうした複雑な光景はきれいに取り払われているはずだ。いままでは、「外国人」に象徴されるような外部的要素が、この矛盾を解消していた。「外国人」は、依頼主の知らないところで、まっとうできない命令、あるいは使命を消し去ってくれる。今回彼らは死ぬことになったが、外国にもどってしまえばそうした心配もほぼ必要ないのである。滑皮はここに丑嶋という自身の反対命題を持ち込む。根本的には同一人物といっていいふたりだが、父性をどのように受け取るかで両者は分岐した。滑皮は、自身の生きかたが正しいことを証明するにあたって、「丑嶋を否定する」という方法をとっているわけなのだ。といっても、それは周囲に向けられたものではない。周囲に向けては、いやというほどその正しさが突きつけられているだろう。そうではなく、これはいってみれば彼じしんの納得のためなのだ。丑嶋の生き方のほうが正しかったという可能性が少しでも感じられたら、それは彼の生にとっての不穏な兆しとなるだろう。そうして彼は、「豹堂殺し」という、矛盾したふたつの命令・使命のうちのいっぽうを丑嶋に付託するのである。残った命令と彼自身が一致したとき、一本化されたクリーンなヤクザ、トップに立つにふさわしいヤクザの姿が完成する。もちろん、これからもこうした状況は続いていくので、あくまで象徴的な事件、ひとことでいえば「イベント」に過ぎないことではあるのだが、滑皮としてはこれでようやく真に彼自身の生の全肯定ができるようになるのである。
それと同時に、盃ということばを聴いてじゃっかんうれしそうにしている場面も見逃せない。これはこれで、また文脈が異なってくるとおもうが、いずれにしても、もし丑嶋がヤクザになるようなことがあるとすれば、それは、丑嶋がじぶんの人生がまちがっていたということを認めて、滑皮にくだるということにほかならないわけである。それはそれでやはり滑皮の生を肯定することにはなるので、望ましい。けれども、いざ丑嶋がヤクザになるというと、あのように、ほとんどガッカリするわけである。滑皮は、丑嶋にヤクザになってほしい。そうすれば、彼はじぶんを肯定できる。しかし同時に、ヤクザになってほしくない。なぜなら、そのように屈服した瞬間に、丑嶋が滑皮と同根で、ほぼ等価であるという事実は失われてしまうからである。つまり、こんなふうに屈服してヤクザになるような男にはそもそもヤクザになってほしいと願うことがないのである。なんとも複雑な心理だが、そんなところじゃないかとおもう。
丑嶋の考えていることはわからない。外国人がプレス機に放り込まれたときは、さすがに汗をかいて動揺しているようだった。しかし、もっとも汗をかくべきタイミング、つまり死が目前に迫ったあの命乞いの場面で、彼は少しも汗をかいていないのである。いや、これを単独で見れば、変ということもないのかもしれないが、いっそう不思議に感じられるのは、ほんの1頁手前で、柄崎に「黙れ!」といっていることだ。ふつうに読んだら、この段階での丑嶋はまだ屈服する気がない。動揺はしているようだ。柄崎の言動にこころを動かされていることはまちがいない。しかし、まだ足りない。そこであの命乞いになるわけである。
ちょっとだけ気になるのは、「黙れ」という言い方だ。丑嶋は、動揺しつつも、柄崎にそのようにいう。しかしこれは、内容に言及したものではない。要するに「しゃべるな」ということだ。ここまできたら意地もなにもない、ということで、いわば反論することができず、そういうことを言った、といえばそういうふうにも見える。だって、縛られた、合図ひとつで圧死する状況で、「負けてない」なんていってもなんの意味もないからだ。だから、「黙れ」が変だということではない。しかし、そこからの接続はおかしい。とするなら、「黙れ」にも必然性があるのではないかというはなしである。つまり丑嶋は、最初からあのタイミングで命乞いをするつもりだったのではないかということだ。
あの動揺具合からして、さすがの丑嶋も、じぶんの哲学がまちがっていたかもしれない、という可能性を視野にはいれているだろう。げんに彼自身、まちがってるかと柄崎に訊ねたことがあるのだ。竹本の幻影があらわれたのも、彼の迷いからである。丑嶋がこの生き方にどこまでもこだわるのは、竹本を地獄送りにしたという経験があったからだ。彼は、死ぬ瞬間までその生き方にこだわらなければならない。そうでなければ、あのとき折れて、信念を曲げて、竹本を許してやればよかったことになってしまうからである。しかし、ここまできて、ようやく丑嶋もそういう気持ちになりつつある。問題はどのように「転向」するかである。その状況を描いた脚本に、柄崎の慟哭は不向きだった、そういうことなのではないだろうか。
では、柄崎があのままなにもいわず、圧死寸前で命乞いをしたら、そこに見える景色はどのようなものになっていただろう。それは、まぎれもなく、「死ぬよりはマシ」という、柄崎が臨む丑嶋の姿だったはずだ。丑嶋は、「柄崎に説得されて出頭を願い出た」という状況ではなく、「死をおそれて、死ぬよりはヤクザになったほうがマシと考えて、出頭を申し出た」という状況をつくろうとしていたのではないだろうか。そのちがいは、柄崎にとっては些細なことだ。重要なことは、彼自身がいうように、丑嶋が生きることだからだ。そのちがいはどこにあるあろう。
それは、もちろん、「丑嶋じしんがじぶんの意志で認めたかどうか」というところだ。もし彼が、いままでの全能感のまま(例の水の件もあるので、ラッキーパンチ的なものも含めてまだそれは否定できないのだが)、一種の策として屈服を擬装しては、まったく意味がない。書いたように、これは、丑嶋じしんが、じぶんの意志で認めなくてはならない。そうしなくては、「死んだほうがマシ」が「死ぬよりマシ」に転じることがないのである。戦略でもなく、また柄崎の説得に動かされるのでもなく、じぶんの意志で負けを認める、それこそが、柄崎の望むことなのだ。だから丑嶋は柄崎に黙れといったのではないか。
残り2話、水の件がほんとうにそうだとすると、次回はその展開が描かれる感じだろうか。とすると、辰也はやはりどの読者も想像したとおり、最終話にあらわれる感じになるのかな。ほんとうに終わるのかなこれ・・・。
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