第22話/スポーツ紙の反響
路上相撲で現役大関を圧倒した野見宿禰。大関は肩甲骨のところに指を差し込まれたわけだが、そのことじたいは大怪我ということにはなっていないようである。しかし力士としては致命的だった。誰の手にも高性能のカメラがあるこういう世の中である、野次馬の誰かが提供したのかたまたま記者がいたのか、とにかく、スポーツ紙ではふつうにふたりの写真つきでこれが報じられているのである。
大関は相撲協会理事長の嵐川将平というひとの前に呼び出されていた。理事長この件の「何」を問題とするかが、金竜山たちのたくらみ含みてポイントになってくるだろう。
まず、この相手の大男は誰なのか。大関にもそれはわからない。理事長は、まさかほんとうに、誰だかわからないものと喧嘩みたいなことが起こったとはおもっていなかったようだ。こんな体格でもあるし、力士崩れとか、過去のなにか因縁とか、そういうことを想像したのかも。でもそうではない。要するに、ただの喧嘩である。天下の大関が人目のある街中でそんなことをしたのかと、大関はまずそう怒られる。だが、これは逆に大関のフォローにもなっている。というのは、大関は、大勢の前だからこそ、引けなくなってしまったのだ。ここにも、「観る/観られる」という関係性が見て取れる。
なにはともあれ、大関はそんなことをしていい立場ではない。謹慎してしばらく部屋から出るな、ということで、理事長の考えは次にすすむ。どこのどいつなんだと。たぶん、これが、金竜山たちの期待した展開そのものなのだろう。
光成邸では光成と加納が鯉にえさをまいている。宿禰の喧嘩はテレビでも報道されているようだ。新聞をよく読むと「フリークライマー」の文字も見えるので、あのイベントの映像なんかも引っ張り出されているだろう。
金竜山は空気を読まない。大人の事情で汚い相撲をせよと命令されても、きれにな相撲をとっちゃう男だ。光成もそこのぶぶん理解はあるが、荒っぽすぎるともいう。加納は、いちファイターとしての感想か、宿禰を「何者」なのかという。そりゃ、二代目野見宿禰なわけだが、そういうことではない。執拗につまらないギャグを目の前で連発してくるやつにイライラして「なんなの?!」といってしまうような感じだろう。
光成は宿禰との出会いを思い返す。タイミングからしてまだ武蔵が動いていたころのことだろう。当代の野見宿禰がついに石炭をまるごとダイヤにした、というはなしを聞いたのだろう、光成はみずからその、どこかの山にやってきた。案内の小池才明という僧がそのダイヤモンドを見せる。だが、さすがの光成も完全に信じているというわけではないのかもしれない、石炭がダイヤにかわる瞬間を見たのか、と問う。石炭は、代々同じものを使っているようだ。宿禰が握る前は、初代野見宿禰がつけた指のあとがダイヤモンドと化して輝いている状態だ。歴代の宿禰はこれに挑戦していったが、ダイヤモンド化を進行させることさえできなかったのだ。それを、彼らは神事として行ってきた。だから、小池をはじめとした多くの僧もその場に立ち会う。そうして、リンゴ大の石炭がすっぽりてのひらのなかに消えるのを見たのだという。1分ほど握ってダイヤの完成と。仮にこれが手品なのだとしても、それはそれですごいというか、けっきょく同じことという感じもする。スカイツリーを消します!と宣言して、じっさいに消えてしまったら、彼が手品師だろうと魔術師だろうと、消えたことにちがいはないのである。
ようやくはなしを信じた光成は、宿禰と会うことにする。彼はもう背後までやってきていた。でかすぎて視界におさまらなかったのだ。これが初対面である。
宿禰は、これから「行」に入るのだという。光成はこれに同行することになるのだった。
つづく。
「行」ということは、ついに宿禰がひとりでどうやってそこまで強さを手に入れたのか知ることができるのだろうか。それは興味深い。
石炭をダイヤにするのはいくらなんでもムチャすぎる問題は最後までバキ道に付きまとうだろう。だが、この問題も、視点しだいといえるのかもしれない、と今回ふとおもった。つまり、それを、握力だけで作り上げたのだと考えるなら、そんなばかな、ということになるのだが、そうではない可能性もあるわけである。手品のように、手のなかに隠した石炭をダイヤとすりかえ、その事実だけがあとに残り、宿禰はそれにふさわしい強さを見せていけば、それでじゅうぶんなのだ。そして、じっさいのところ100トンの握力というようなことは、光の速さを手持ちの経験で想像するようなもので、じっさいにはイメージが及ぶことはない。だから、その「ふさわしい強さ」とやらも、わたしたちは想像することができない。宿禰は、ただ予想を越えていけばいいのである。そうして、徐々に、客観的には「ふさわしい強さ」を開示するようにして、あとから肉付けしていけばよいのだ。
で、その強さがどうやってもたらされたのかである。ひとりでできる鍛錬というのはじつはかなり限られている。強い選手がごろごろいる都心のジムや道場からチャンピオンが登場するのは、ある意味では自然なことだ。だって、彼らは毎日、トーナメントの決勝のような組手を訓練として行っているのだから。地方出身の選手がそうした全国大会で優勝するのが偉大なのは、まずそうした視点においてだ。たいていのばあい、そのくらいのレベルになると、県内にじぶんより強いものがいなくなってしまって、頭打ちになってしまうのだ。バキ世界では勇次郎クラスになると、その感覚を日常的に味わっているだろう。彼らからすれば、もはや世界が地方である。だから、崖から飛び降りたり、猛獣とたたかったり、ムチャに走るわけである。宿禰はどのようなことを行ってきたのか、たいへん気になるところである。
さて、今回も「観る/観られる」にかんして深めていくことにしよう。やはり、宿禰というか、相撲においてはこのことが分岐点のようである。というのは、大関は「大勢の前」で喧嘩したことを怒られているわけだが、大関としては「大勢の前」だから喧嘩したのである。つまり、大関がこのとき喧嘩すべきだったかどうかは、どちらの視点に立っても「大勢」が決めていることになるのである。
たとえば、極端な例として、刃牙道冒頭で行われた勇次郎対花山を思い浮かべてみればよいだろう。彼らの喧嘩の動機のなかに、周囲の人間の視線というものは果たしてあっただろうか。危ないとか、邪魔だとか、そういう意味では、その存在が目に入ることもあっただろうが(勇次郎は親子喧嘩で有名人になってしまったので、似合わないサングラスをしていた)、やるやらない、あるはいやるとして、その先にどういう行動をとるかということにかんして、「大勢」の存在などなかったはずである。あれは、ただふたりの関係性の、格闘的表現でしかないのだ。
では大関はどうすればよかったのだろう。大関としては、大勢が見ていて、しかもなかには無責任に煽るものなんかもいて、無視できないとなって、喧嘩を買ったわけである。つまり、大関は、ここで喧嘩を買わないことはむしろマイナスだと判断したということなのだ。現場の大関と管理職の人間の価値観が異なるのは自然なことである。理事長としては、当然、これは無視すべきだったと考えている。が、大関が想定した「マイナス」要素を、しかたないとあきらめているのではない。つまり、へらへら笑って、喧嘩できないんスよ・・・などといって引き下がればよかった、などということをいっているのではない。いかにも管理職的といえばそうである。AをするならBをあきらめなければならない、という現場の状況を、AもBも両立させろといっているわけなのだ。まあ、こういうのはいかにもえらいひとのいいそうなことなので、それじたいどうということはない。問題は、いままでこのようなことが起こらなかったということなのだ。大関は、喧嘩することじたいがすでにアウトだった。だから、今回は盛大に負けたが、仮にぼこぼこにぶちのめしたとしても、スクープは免れなかっただろう。つまり、大勢の見ている前で喧嘩を売られたら、もう大関はどんな場合もアウトなのである。しかるに、そういうことはいままで起きなかった。だからこそ、理事長は、管理職的ダブルバインドの要求をする。
なぜか。2通り考えられる。神聖視と当事者意識の欠如である。オリバがあのザマなのだ、大関がかなうわけはないのだが、一流の格闘家でもある加納は、このことをひどく大きくとらえている。それだけ、バキ世界であっても、「力士」という存在は不可解かつ不可侵なのである。そして、このことを背後から支えることになるのが、相撲を「観るもの」とする当事者意識の欠如である。野次馬たちが、無責任に大関を煽るとき、彼らはテレビでも観ているような感覚でいるはずである。大関にもややこしい事情があって、ここはそっとその場を去りたいところ、彼らはそうさせない。なぜなら、相撲は目の前で行われるものであって、目の前で行われていないものは、存在もしていないからである。加納でさえも力士を神聖視するこの状況も、実は当事者意識の欠如によるものであるかもしれない。力士というのはあまりに大きく、相撲の世界は謎に満ちている。だから、なにか、世界の現実原則からはずれたようなものとして、この世界を受け取らせてしまうのだ。相撲は、じぶんたちには関係ない世界、そこに「観る」が加わるとき、決定的に当事者意識が失われるのである。
問題は金竜山がこのことを通してなにを引き出したいのかだ。以上の考えはこれまでも展開してきたもので、要するに、彼らはその「観客」という評価基準を取っ払いたいのだ。じつはその場面はすでに描かれている。大関の張り手だ。投げ殺されかけた大関だが、観客はそれをパフォーマンスとして受け取っていた。あそこでへらっと笑って握手でもして帰れば、まだ取り返しはついた。けれども、大関の、「外部」をいっさい意識しない、いわばファイターとしてのプライドが、最後に張り手をさせたのである。宿禰たちが求めているのはこの「なりふりかまわぬ姿」なのではないだろうか。理事長はかなり怒っている様子である。宿禰の正体を突き止めたら、すぐになんらかの手を打つだろう。その理由は、大関の醜態を「大勢」に見られたからである。つまり、相撲の聖性を保つためだ。けれども、初期衝動はなんでもいい。宿禰だって、大関が断れない、喧嘩を買わないわけにはいかないということがわかっていて、わざと繁華街で喧嘩を売ったのだ。問題はそのあとである。そのあと、彼らがどれだけ「土俵」に規定された世界にこだわれるか、外部のスポンサーだとか生中継だとか観客だとかを無視できるか。たぶん、そういうことを金竜山は考えているのではないかとおもう。それこそが「きれい」な相撲なのだ。
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