今週のバキ道/第21話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第21話/宿禰vs大関 決着

 

 

 

 

 

 

二代目・野見宿禰と現役力士の大関との路上相撲がはじまった。

しかし、宿禰は握りで石炭をダイヤに変えてしまう神話の住人である。いくら大関が人並みはずれたちからを持っていても、勝負になるわけはない。宿禰は、ぶつかってきた大関を受け止め、背中に指を食い込ませて肩甲骨をつかむのだった。

 

大関からすると、たたかいの最中ということもあって、厳密に痛みの出所を探ることができない。痛みと、あとしびれがやってきて、どこかをつかまれていることはわかるが、それがどこなのかわからない、というところだ。だいたい、服は脱いでいるのだし、あとは力士の筋肉と脂肪でぱんぱんに張った背中がつるりと広がるだけなのだ。

しかし、片手で肩のうえに担ぎ上げられたところで、大関は肩甲骨を捕られているということをようやく理解する。宿禰はそこでいちど静止したようである。観衆は、いろいろな点でありえないこの光景を、テレビの撮影かなんかだと考えている。そう考えるほかないからそうだ、というような理屈である。あの強い大関が本気でやって担がれるわけがない。そんなことができる人間は存在しない。だいたい、あんな位置で人体をつかんで持ち上げることなど不可能であると、こんな感じだろう。そこで宿禰が静止したことを、いちぶの人間は「だから投げないんだ」と考える。テレビだから、そこから先、つまり、「投げてたたきつける」をやらないのだと、こういう認識である。

 

しかし宿禰は続ける。そこから、背負っていた大関を逆さに、脳天を地面に向けて降下させたのである。大関のあたまをさまざまなことがよぎる。まず、死は予感される。そうでないにしても、大怪我である。そもそも、してはいけない素人との喧嘩を、じぶんは買ってしまっている。それはたぶん、勝つつもりだったということもあるだろう。処分、馘首といった言葉も浮かぶ。

だが、宿禰は地面すれすれで大関の頭をキャッチする。投げをとめるのではなく、高速で降下している大関をそのまま片手でとらえた感じだ。なにからなにまでコントロールしているという印象である。そこから、宿禰と比べれば小さいとはいえ、明らかに常人離れした体格の大関が、やわらかく着地させられる。さすがに降下が始まったときはひやりとした観衆もいただろうが、こういう宿禰の行動をみて、再びこれが「ガチ」ではないということを認識したようだ。これは喧嘩ではないのである。テレビなのかなんなのか、それはわからないが、ともかく、真剣勝負ではなかった、こういう合意が、警官含め、周辺には生じているのだ。

宿禰は呼吸ひとつ乱さないまま、大関に礼をいう。手合わせにこたえてくれたことに対してだろう。しかしここで大関が再び闘争心を取り戻す。観衆はこれを「ガチ」とは受け取らなかったわけだから、ここで爆笑するとか、適当にはなしに乗ったふりをしておけば、彼が降下中に心配した処分だとか大関の威厳だとか、そういう問題は起こらないはずだ。だが、おそらくひとりのファイターとしての闘争心が、最後に彼をカッとさせたのだ。左の張り手というかビンタというか、とにかく打撃である。顎の先をねらったとかそういうことではないが、それなりにシャープな一撃で、もしかすると大関はふつうに脳震盪を狙ったのかもしれない。しかし、ふつうに攻撃を堪能したあと、宿禰はムチャだという。打たれるとワカってしまえば、力士は倒れないと。たしかに、大関の打撃が始まった瞬間、宿禰はすでに反応を見せている。踏ん張るのかなんなのか、とにかく打たれる覚悟を決めてしまったら、倒れないのだ。ということは、覚悟を決めていない状態なら倒せる可能性もあるというわけか。

 

もはや面目のこととか敗北感とかも失せ、ぽかんとした表情で、大関は去っていく宿禰を見送る。その宿禰のところに、女の子がやってくる。宿禰がお台場でクライミングしたかたですよねと。宿禰は、あそこに「いてくれたんだね」という。まあそうとも限らないわけだが、女の子はいたらしくて、すっかり宿禰にあこがれてしまっている。それを、宿禰は、かなり穏やかではない笑顔で受け止め、夜の街に彼女を連れて行き、それを金竜山が笑いながら見送るのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

やれやれ、宿禰にかんする読みは毎回更新していかなければならないなあ。前回まで使っていた考え方をまったく逆転させなければならない、みたいなことを、バキ道が始まってからずっとやってる気がする。

 

現在もっとも気にかかることというのは、金竜山の、そして、ということはそれと合意したうえで行動しているはずの宿禰の意図である。彼らは、おそらく相撲協会に対して、つまり現行の世界の相撲観に対して、なにかをしようとしている。そのなにかの最初の一手が、大関への挑戦だった。そしてそのなにかの初期衝動的なところには、現行の相撲が「きれい」ではない、不純である、ということがある。現在までにわかっている客観的な事実はこれだけである。

こうしたところで、前回は、相撲を「きれい」ではないものにした原因として、それを「観るもの」としたメディアや、それに答える力士たちのパフォーマー的意識をくじくものなのではないかと考えた。とりわけ、これは今回についてもいえることだが、どこか前回からの観客の反応は無責任である。基本、バキ世界で路上の喧嘩を観戦するものはみんな無責任だが、それにしてもそういう描写が妙に続いていた。ここに、相撲を、引いては格闘技というものを「観るもの」とする、一般的合意の気配が感じられたわけである。

ではなぜそれが「きれい」ではない相撲につながるかというと、それが、土俵にあがるふたりの男とは無関係な、外部的構造だからである。金竜山に宿禰が「きれい」というのは、要するに、八百長をしなかったということだ。なぜ八百長が起こるのかというと、外部があるからである。スポンサーとか、人気とか、土俵上のかかわりとはほんらい無関係の大人の事情がからんでくるからである。路上で、肩がぶつかったぶつかってないで始まった喧嘩に、スポンサーへの配慮とか、タニマチどうしの駆け引きだとか、テレビの向こうのファンの反応だとかは、かかわってこないのだ。これが、相撲を不純にするのだ。

そこで、前回ぼくは、宿禰が相撲を「観るもの」であることから解除するために、無責任に警官などを煽って喧嘩を楽しむ観衆たちに「当事者意識」を植え付けるのではないか、つまり、大関をそのまま落として、ドン引きさせるのではないかと推測した。結果、そうはならなかった。それどころか、ぎりぎりまで本気で落としてそれをキャッチしてしまったことで、観衆たちは「やっぱりテレビだ」というふうになったにちがいないのである。つまり、相撲を「観るもの」とする立場のものたちからすると、ここではなにも起こっていない。大関は負けていないし、相変わらず相撲は無責任に観戦するものなのである。

 

では逆に、宿禰があのようにすることで起こりうることはなんだろうかということになる。ここで引っかかるのは、「手心」である。金竜山は、それをしなかったから、業界では浮いた存在になっていた。八百長を受け容れず、「きれい」な相撲を続けたのである。

今回の宿禰は、落下する大関を受け止めることで、結果「手心」を加えていることにはなる。ただ、負けてはいない。いってみれば、「それ以上やる必要はない」は実戦で有効か、という、武蔵戦でくりかえし読者につきつけられた問いが、ここで復活しているのである。だから、この「手心」は、当然、八百長を行ううえで出てくるものとは異なっている。ただ、負けてはいないが、「観るもの」目線からすると、勝ってもいない。というか、勝負じたいが発生していない。彼らはやはり、相撲を「観るもの」と受け取り、まさしくそれをテレビ的ななにかだととらえ、その解釈のまま帰宅するのである。

 

だが、宿禰や金竜山はとりあえずこれで満足のようだ。とすると、彼らはこの一戦でその「観るもの」的立場をひっくり返そうとはしていなかったことになる。ではなんなのかというと、大関しかいない。大関のあの一撃なのである。宿禰は、ちからを見せ付けただけで満足していたようだった。宿禰の「実力」を理解したのは、おそらく大関と、その付け人だけである。それで彼は満足している。今回はほんとうにただの最初の一手、これからはじまるなんらかの混乱への導入でしかないのである。どういうことかというと、大関にとって、あそこで宿禰を張ることには、外部の存在する大相撲の職業力士としては、なんの意味もない。宿禰には完敗し、じぶんでその実力差を理解しているが、誰もそのことには気づいていない。あのまま帰ればそれで済む。が、彼のファイターとしての魂が、それを許さなかった。おそらくこれが、宿禰たちの求めていたものだったのである。